●アイデアの源泉は・・・
─── 「ももんちゃん」シリーズのお話を考える時、誰か具体的なモデルがいたりするのでしょうか?例えば自分のお子さんの事を思い出したり、お孫さんが遊んでいる様子を実際に見ながらアイディアが浮かぶという様な事はあるのでしょうか?
それは、あまりないですね。小学校の授業なんかに行くと、よく「この作品を作るのにどれぐらい時間がかかりましたか」という質問があるんですよ。僕は今、62歳だから、新作『こちょこちょももんちゃん』をつくったんだけど、それは62年かかってるということなんだろうと思うんですよ。言葉として。覚えているか覚えていないかは別問題として、自分の記憶や見たものというのは、ずっとつながってきているわけだから。自分の子を見たり、ひと様の子を見たり孫を見たりすることも、全部複合的に入ってて、「これだ、これがヒントだ」というのは実はないんですよ。例えば「こんなおもしろいことがあった。とよたさん、これ、絵本にできない?」というような、アイディアをもらう時もあるんだけど、それは右から左に抜けていっちゃうのね。自分で血肉化してないと、やっぱりだめなんですよ。作品にはできない。
子どもに向けて本を描くというのは、その人の大人度が計られるんですね。この歳になるとよくわかるんですよ。色々なものを経験していないと、なかなか描けないもんだなあ、と。子どもの本に関わっている以上、思いっきり大人になって、思いきり子どもに戻れるということが、必要要素なんだってことだよね。作品はあんまり汗水みせたくないから、「ふふふん」と鼻歌うたって出来上がった様にはしたいですけどね。
─── 「自分の中から出てくるもの」というのが、一番のこだわりという事なんですね。
中でも、確たるものというのは、やっぱり幼児期です。環境によって子どもの状況というのは変わってくる。僕らの時代には携帯も、パソコンもなかったわけだし。要するに、学齢前。学校に入ってから環境が変わっていく、これはしょうがない。ただ、幸いなことに僕が今やっているジャンルというのは学齢前だから、これは変わらない。人間の核たるものは昔から変わっていない。だからそこら辺に信頼感があるわけですね。その頃の感触というのは、自然に出てきますね。
─── ちなみに、とよたさんは小さい頃どんなお子さんだったのでしょう?
「やっぱり小さい頃から絵が好きだったんですか?」と聞かれる事がよくあるんです。でも、ペンがあったらいつも描いてる、というほど好きではなかったし、平々凡々、普通だった。もし僕が親の立場だったら、「この子、こういうところ変わってるね」なんていうのは、多分なかったと思うよ。だって母親もそんなこと絶対言わなかったし、才能あるとかなんとか、全然思いもしてない。もう平凡にあがってきてますよ。結局、どの時代に特に影響を受けてというよりは、もう62年間の積み重ねですね。
●ちょっと変わった「あかちゃん絵本」
─── それでは、この「ももんちゃん」シリーズをどんな風に楽しんもらいたいか、というのはありますか?
乳幼児に向けた絵本を作るということは、本当の読者にいく為には間に大人の存在が必要なわけですよね。親が読んであげたり、保育園の先生が読んでくれたりするという仕組みをもって、一種の二重構造だね。そうすると読む側が「おお、こういうのありか」「こういうの、おもしろいじゃん」というぐらいで楽しんで読んでもらえれば。読んでもらう赤ちゃんにとっては、砂漠がどうだとかサボテンがどうだなんてことを、いちいちこだわってないんだよね。ですから読んであげながら楽しんでくれれば、それが一番ベスト。そのままで伝わるということですよ。いやいや読んであげていたら、やっぱりあんまり子どもには伝わってないよね。
だから、親子で楽しむということが、基本にあるわけです。本当の読者、あかちゃんが黙って自分で読むわけないからね。例えば、子どもをひざに乗っけて読んであげる時なんかに、読んであげる大人が楽しんでくれたらいいなあ、というのはありますね。だから僕はサボテンとか、金魚とか出したんだと思うんだ。あかちゃんにちゃんと依拠してやるんなら、犬とか猫とかって形になっていると思う。
これは個人的な体験ですけど、子どもが生まれる前は、「あかちゃん絵本」というと、観念的にあかちゃんはやっぱり鮮やかな色の方がとか、犬や猫は知っているから喜ぶとか、形がはっきりしているのがいい・・・そういう思い込みがあったんです。でも、実際に「ももんちゃん」を読んでいくうちに、あかちゃんの反応ってもっと色々あるんだなあと発見したり、「あかちゃん絵本」と一口に言っても、こんなに色々な世界があるんだなあと感動したり。「あかちゃん絵本」の面白さを知るきっかけにもなったのです。
─── やはり、最初から「今までにないあかちゃん絵本を」というのを想定されてつくられていったのでしょうか?
そこまでは意識していなかったような気はするの、結果論ですね。
生まれたてのあかちゃんに、「この世界は面白い」なんてストーリーがあったってわからない訳だから、大人にとって、やっぱりどこか物足りなさがあるっていうのは当り前なんだよね。「ももんちゃん」シリーズは、ちょっとそこから逸脱したんですよ。この絵本を中学生に読み聞かせした先生がいてね、中学生から色々感想文が来たぐらいだから。だから最初は「あかちゃん絵本」ってうたわなかったの。
でも今度は、本当にファーストブック的なものを作ろうと思っているの。何となく揺り戻しがあってね。そうすると今度はやっぱり犬や猫、ひよこさん。赤ちゃんは生き物が好きだから。一方ではそういうのも創ってみたくなって。
─── 「ももんちゃん」も、他の作品も含めて、自分がやっていない事はやってみたいというのは、表現者として常にあるということなんでしょうか?
でも、それはやっぱり作為的なところがあると見抜かれるよね。ちょっと言うには恥ずかしい言葉だけど、素直な気持ちってやっぱり大事なんだよね。何でここで笑ったのかとか、突然泣き出したのかとかっていうのが、違和感もなくすっと入っていける形。「これはなんで泣いたんだ?」という理由づけを要求されないような絵の力であり、前ページが次のページへ引っ張ってくる、引き寄せる力みたいなものがないとね。読者はすぐにわかる。創っている時に、どこかちゅうちょしてるような段階で出した場合っていうのは、本当にだめ。読者は怖いです。
─── 実際に反応の違いというのは実感されながら・・・?
うん、わかる。でも、あいまいであっても、それに答えられるように自分がちゃんと用意できてれば、大丈夫なんです。例えば『ももんちゃん えーんえーん』。
泣いていたひよこさんのお父さんが迎えにきて、やっぱり泣いていたひつじさんのお母さんが迎えにきて、安心したももんちゃんはまたお昼寝をします。
最後のページに「なんで、ももんちゃんのお母さんがいないんだ」という声が実に多いんですよ。ひよこさんのお父さんが来て、ひつじさんのお母さんが来て、当然今度はももんちゃんのお母さんが・・・と期待しているわけですよね、読者は。後姿でもいいから、お母さんの姿が欲しいという声がいっぱいあったんです。そういう声があるだろうという事は僕の中では織り込み済みなんです。やっぱりお母さんが来たら安心するんだよね。でも実際には、裏表紙でお母さんは実はそんな遠くにはいなかったんだよ、という事を暗示しているんです。あくまで本というのは本文ページで完結しなくてはいけない訳なので、裏表紙まで引っ張っちゃいけないんですよ。裏表紙は余韻のページだから。これがあってもなくても成立しないといけない。だから、僕はこの終わり方で成立しているんです。
これは、“自立したあかちゃん”というテーマ。だいたい大平原に赤ちゃんが一人で寝ているわけないですから(笑)。ここでお母さんの姿があると、その設定自体が崩れちゃう。そうすると、ここはずっと終始一貫して最後まで何事もなかったように終わるんです。これは自立していないと。お母さんが出てくれば、それは終わり方としてきれいなんですけどね。最後はお母さんを出した方がいいんだろうか、だめなんだろうかって迷っている時はダメだよね。
「ももんちゃん」シリーズの裏表紙は余韻にひたれる大事なポイント!とよたさんも大事にされているそうですよ。またそういった目で他の作品も楽しんでみてくださいね。
●待望の最新刊は、『こちょこちょ ももんちゃん』
そして、この度「ももんちゃん」シリーズの最新刊『こちょこちょ ももんちゃん』が発売されました!なんとシリーズ12冊目になるんです。この取材時はまだ発売前。その最新刊についても少しだけお伺いしました。
『こちょこちょ ももんちゃん』
─── こちょこちょされているみんなの顔が本当に可愛くて・・・。更に、『どんどこ ももんちゃん』からのファンには嬉しい仕掛けもあるんですね!
そうなんです。もう一回『どんどこ ももんちゃん』的な、まっすぐ向かっていくような感じのものを作りたかったんです。今まで色んなパターンで描いてきて、少し間を置いたので、ここでもう一度そこに戻りたい、と。『どんどこ ももんちゃん』ではくまさんを倒しているんですけど、今度は、こぐまさんなんですよね。その子どもっていう発想。だって、一度どーんってやったくまさんにちょっとねえ(笑)。
─── 本当だ!ちょっと小さい。(笑)。このきんぎょさんはまた・・・。
でかいでしょう。そこはでかくしたかったんだよね、本当に。そこを中途半端にリアリティーにしてもね。どうしても寸法が合わないでしょう?そう言われちゃうと困るんだけど、デフォルメだよね。そこは許してもらう。でっかく脇の下をこちょこちょやってくれないと。だから小学生に読み聞かせした時、「でけえ〜!」って言ったもん(笑)。「金魚がでっけぇー!」って言った。
この間小学校で読み聞かせした時、たまたまこのダミー本が出来上がったからってやってみたら、子どもたちが金魚のところで「でけえ〜!」って。1年から6年まで。「でけえー!」っていう言葉は拒否された言葉じゃなかった。おもしろがっていて。その大きさもOK、許すっていう「でけえ!」だった。非難の声でないことは読み取れる。ああ、彼らは受け入れたんだ、このでかさをって。
でもこれ、読み聞かせが難しかったなあ。普段、読み聞かせる時は、拡大していくんですよ。でもこれはまだダミーの段階だったから、この大きさで400人はきつかった。
─── その最新刊を含めると、シリーズで12冊にもなるんですよね。ここまで人気があって、続いているというのは感慨深いものがあるのでは?
絵本っていうのは作るのは作者だけれど、やっぱり読者の手に届けるには出版社の営業力って大きいんですよね。作品に本当に力があって、黙ってても売れるというのは、中にはあるのかもしれないけど、そう甘くはないよね。だから同じように出しても、うまくいったかどうかわからないです。自分一人だけの力じゃ絶対ない、ということはわかるよね。作品だけがいいから売れるでしょう、ということは言えない。だから12冊めだから感慨深い、というのはないです。
●新シリーズ「おいしいともだち」もちょっとだけご紹介
─── 先ほどのお話にも少し出た食べ物絵本「おいしいともだち」シリーズ。こちらもとっても気になるんです。
「ももんちゃん」シリーズは“あかちゃんの自立”をテーマで描いてきたけど、こちらは“食べ物の自立”なんです。人間は一切出てこなくて、例えば、おにぎりが自分で自分をにぎるんです。3つのおにぎりが、自分たちで具をおなかに、入れるんだけど、どれがどの具だったかわからなくなっちゃって。でも「しんぱいごむよう!」。ちゃんと解決するんです。
食べ物の自立というのはあかちゃんの生命力と結びつく。食べ物、その素材自体の生命力というか、自立。『どんどこ ももんちゃん』からつながってきてるんです。食べ物が本来持っているエネルギー、子どもが本来持っている生命力というものにもっと期待していいんじゃないかなと思って。人も食べ物を描くのも、そんなに変わらないですよね。
さっきも言ったんですが、僕は食べ物には全然こだわらない方なんです。だから、例えば納豆と言っても、調べてから描くという事はしないんです。普段そういうことに興味があるわけじゃないから。どうして発酵させてできるとか。僕は全然そういうのは見ないでやっています。何も知らないで。ただ納豆は納豆で、考えないで食べてる状況でやらないと。だから豆腐は何からできてるかって、俺、子どもから質問されたら一瞬わからなくなっちゃうかもしれない、というぐらいわからない。豆腐は豆腐そのものが好きというね。でも冷や奴は、赤ちゃんにはむずかしかったですね。ビールのつまみなんて言ったってね(笑)。