先日『絵本の心理学−子どもの心を理解するために』などの著書がある教育学の佐々木宏子先生の講義を聴く機会があった。
その中で「昔話の面白さと深さ」という単元で、この絵本を紹介されていたのが、読むきっかけになった。
『赤ずきん』という昔話は誰でも知っているだろう。もともとが民話の類だったようで、それをペローが作品に仕上げていったといわれる。
グリム童話で読んだ人も多いだろう。
この作品を佐々木先生は「世代で解釈出来る物語」と位置付けて、さらには「世代間継承で変化する物語」として、いしいしんじ氏のこの絵本を紹介したのだ。
作者のいしい氏は1966年生まれ。(絵は『きょうの猫村さん』のほしよりこさん)
ペローやグリムの時代から遠く隔たった世代である。
ここでは「赤ずきん」というのは記号のようなものでしかない。きっとタイトルと表紙絵でこの絵本を手にした読者はびっくりするだろう。
「えっ、これが『赤ずきん』?」って。
「あたい赤ずきん」という女の子はいくつぐらいだろう。マグロ船ドンデコスタ丸で出ていったジローの帰りを待っている。
彼女の「赤ずきん」は透明で、まわりの人には何も見えない。でも、彼女の目には「真っ赤っ赤」に見えるし、今はいないジローにも真っ赤に見えたはず。
そんな話ってある?
「赤ずきん」とジローは嵐の晩の箱根ターンバイクで一緒に走ったことがあるらしい。
その時、ウィンドゥから半身を乗り出した彼女は真っ赤な「赤ずきん」をなびかせていた。
そんな「赤ずきん」の話ってある?
佐々木先生は「時代を越えてよみがえる」から昔話は面白いと話されたが、私にはどうにもこうにも。
佐々木先生は「親の世代が「理解できない」ことを排除するならば、新しい価値は生まれない」というが、この作品には「裸の王様」のような仕掛けがありはしないか。
「赤ずきん」なんか見えないよ、というべきではないか。
それともやはり、彼女とジローに見える「赤ずきん」を愛の記号として認めるべきか。
あなたは、この感覚についていけるだろうか。