キリスト教では危機の時代に人を、時代を動かすような変革をもたらす思想が生まれてきた。 ロシアのウクライナ侵攻により、東西が激突するいま、求められる思想とは何か――。 1968年の「プラハの春」を経てソ連に抵抗、激動の時代を生きたチェコの神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカの神学的遺産を明らかにする。 作家・佐藤優が最も敬愛する神学者の未邦訳論文集。
【監訳者・佐藤優まえがき】 フロマートカが、一九五八年にキリスト者平和会議を創設したのも、核戦争の危機から人類を救い出すためだった。その基礎にフロマートカは対話を据えた。フロマートカは、資本主義国のキリスト教徒、社会主義国のキリスト教徒の対話を推進するとともにチェコスロヴァキア国内においては、キリスト教徒とマルクス主義者の対話を積極的に推進した。政治体制、世界観、価値観が異なる人々の間でも「人間とは何か」というテーマでならば対話は可能であると考えた。対話によって、互いに変容していくことが重要であるとフロマートカは考えたのである。実際、対話によって人間的な化学変化が生じた。チェコスロヴァキアの場合、キリスト教徒よりもマルクス主義者の方がより大きく変化した。そして、硬直したマルクス・レーニン主義の限界を乗り越えて「人間の顔をした社会主義」を思考するようになった。いわゆる「プラハの春」を支えた思想だ。「プラハの春」は、資本主義化を志向する自由化運動ではなく、社会主義体制を前提とした民主化運動だった。一九六八年八月、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構五カ国軍(ソ連以外は、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア。ルーマニアは同条約に加盟していたが派兵を拒否した)によって力によって押しつぶされた。侵攻に公然と反対し、占領軍の即時撤退を求めたフロマートカは、その後、チェコスロヴァキアでは政治的に好ましくない人物と見なされるようになった。フロマートカが主導したキリスト者平和会議の運動は、西側諸国政府からソ連の平和攻勢の尖兵と見なされた。「プラハの春」がソ連軍などの軍事介入によって潰された後、東側諸国でフロマートカはCIA(米中央情報局)の手先と見なされた。フロマートカにとって重要だったのは、常にイエス・キリストに従い、「然りには然り」「否には否」と述べ、行動することだった。フロマートカは誤解を恐れなかった。私も人生の岐路に立ったときはフロマートカに倣って、イエス・キリストに従う道を選ぶようにしている。
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