クジラを捕り解体した後、骨を海に返し、ムースを捕った後にも頭の毛皮を森へ返す。その件を読んだ時、とても気持ちが揺さぶられた。
今のわたしたちの暮らしの中で使われる言葉の違いにだ。わたしたちは、すでに解体されパック詰めされた肉を食す。残ったものは、土に返すのではなく捨てると表現する。
返すという言葉の根底にある気持ちは、動物と人間という隔たりのある存在ではなく、同じ地平に共に生きる動物への畏敬の念ではないだろうか。
わたしたちは、生きるのに十分すぎる食べ物のある世界に生きている。自分の命を支えてくれる動物たちに祈りを捧げることもなければ、実際に解体する現場に立ち会ったこともなく一生を終える。
こうして、星野道夫の文章を読むことまなければ、気づかずにすぎてしまう暮らしのあり方が、アラスカには存在しているのだ。
便利な暮らしの中で、忘れ去られてしまったものが、アラスカにはある。なぜ人々はアラスカに向かうのか、わたしたちがすでに忘れ去ってきたもの、いや忘れたり捨て去ったりしてはいけないものが、アラスカにはあるからではないだろうか。
少し読んだだけで、答えを出すのは早急すぎるのだが、他の作品も読み進めて自問自答みたい。