著名な作家の子どもが父あるいは母の死後、作家になるという例はさほど珍しくない。
才能が遺伝するということもあるのだろうが、親の生き方や生前親からかけられた言葉の数々が子どもに伝わっていくからだろう。
珍しくとはないとはいえ、この家系は幸田露伴、文、青木玉、奈緒の四代にわたって作家である。これは稀有なことだと思う。
9月20日に急逝した母の遺影を通夜の後、一人見つめながら、幸田文にとって露伴は父であり母であったのだと思った。
文の生母・幾美は文が幼い頃に亡くなっている。母に代わり作法や家事に至るまで細かく教えたのが露伴だからだ。
父を亡くすのも辛いが、母を亡くすのはもっとこたえる。母は生活の一コマ一コマで子どもと密接に結びついているからである。
岩波少年文庫に幸田文作品があるということにある種の不思議さを覚えながら、この本を昨年購入した。
幸田文全集もすでにうちにあるのに、買わずに入られなかったのが、収録作品を編んだのが文の孫の奈緒であったからだ。
文章から受ける印象をたとえると、露伴が剣の達人なら、文は小太刀の名手はないかと、切れ味の良い文章を読みながら思うことがある。
私は母の死を思いながら、文が露伴の死を看取る覚悟をつけた『終焉』を思い出した。私の母は私の覚悟ができる間もなくあっけなく逝ってしまったのだが。
父が末期の癌であることを知った時には『台所のおと』を良く読んだことを思い出す。
『台所のおと』は、夫が助からない病気と知った妻が夫が気にする台所の音を何も知らなかった頃と同じように保つことに神経を集中させることに感心しながら読んだものだ。
優れた文学作品は、実用の書でもあるという言葉を聞いたことがある。
幸田文の作品は、正に実用の書という側面も持ち合わせていると思う。
人は生きていれば何らかの重荷を抱え、また悲しみも知る。そんな時に支えてくれるのは、生きた言葉だ。
書かれた時から年数を経ても生きた言葉であれば、作品を読むたびに読者に新しい発見をもたらす。
言霊のある言葉。そんな生きた言葉に出会いたいと思い本を開くのだ。
この本は中学生以上向けではあるが、大人にも読んでほしい本である。