遠い昔、中原中也が好きだった。
「中原中也の詩だろう」と問われれば、「いや、中原中也その人が」と答えたい。
巷間に知られた恥じらったような美少年の写真といい、長谷川泰子という女性を小林秀雄ととりあったことといい、若くして亡くなったことといい、中也そのものが詩であるような気がする。
まさに「汚れつちまつた悲しみに」だ。
中也そのものがある意味詩人の典型のように思っていた。
それからたくさんの水が橋の下を流れ、中也が亡くなった年齢もとっくに越してしまって、どうもそうではないのではないかと気づいた。
詩人であれ、まっとうな社会人であり、家庭人たりうる。
そんな詩人の一人は、吉野弘であることは間違いない。
吉野弘といえば、「祝婚歌」といわれるほど有名な詩がある。あるいは教科書にも載った「夕焼け」という詩も広く知られている。
この詩集にはそういう代表作も収録されているが、吉野弘の単独詩集であるから、目にしたこともない詩も多いだろう。
例えば、私は「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」という節で始まる、「生命は」という詩が気にいった。
その詩の最後はこうだ。「私も あるとき/誰かのための虻だったろう//あなたも あるとき/私のための風だったかもしれない」、そんな虻と風が出会って、「愚かでいるほうがいい/立派すぎないほうがいい」という「祝婚歌」の世界につながっていくのだろう。
もうひとつ、この詩集の特長でいえば、言葉遊びの詩が数多く収録されていることだ。
言葉遊びといえば谷川俊太郎が数々の詩を発表しているが、吉野弘も負けてはいない。
気に入ったのは、「主婦」という詩。「婦」という言葉を分解して、「主(おも)に帚(ほうき)を使う女」と読めることに詩人はそうではないと異議を申し立てる。「主(あるじ)に帚(ほうき)を使う女」。
詩人の目の鋭さと文字に対するセンスの良さを感じないだろうか。
吉野弘に「「汚れつちまつた悲しみ」は隠されているが、もっともっと読まれるべき詩人だ。