インタビュー
2011.05.25
『あやちゃんのうまれたひ』『あめふりあっくん』『ぼくのかわいくないいもうと』など、 ユーモアあふれるやさしいまなざしで子どもを描き、子育て世代にエールを送られてきた浜田桂子さん。たくさんのお母さん方に支持されていますが、そんな浜田さんの新作『へいわって どんなこと?』ができました。今こそ親子で考えたい、へいわって、しあわせって、どんなことだろう? そんな気持ちで浜田さんにお話をうかがいました。
出版社からの内容紹介
へいわってどんなこと? きっとね、へいわってこんなこと 。いろいろな事から平和を考えます。日本の絵本作家が中国と韓国に呼びかけ、三か国12人の絵本作家の協力で実現した平和を訴える絵本シリーズ第一作。
─── 東日本大震災以降の不安な日々のなかで、絵本の力や役割はどんなことだろうと。子どもたちの気持ちをやさしく包みこんだり、親子が共有する時間をつくることができたり、あらためて癒しとしての絵本の力を感じています。
一方では、子どもたちが乗り越えなくてはいけないこと、知らなくてはならないこと…たとえば突然やってくる親しい人との別れや、戦争や平和について絵本の中で考えることも、大きな役割のひとつではないかという思いもずっとあるんです。『へいわって どんなこと?』は何年越しかの企画とうかがっています。なぜこの絵本を作ろうと思われたのでしょうか。
(※取材は2011年3月25日に行われました)
平和についての関心はもともと高かったと思うんです。ずいぶん以前のことになりますが、子どもが生まれて子育てしている頃、私はまったくの主婦、専業主婦でした。2人子どもがいるんですが、間が1年8ヶ月しか離れていない。ほとんど年子のようで、ほんとに『ぼくのかわいくないいもうと』の兄妹のよう(笑)。絵本を作りたい思いはずっとあったけれど、絵を描く時間はなかったですし、もう子育てに没頭しよう、この経験が必ず子どもに向けて発信するときのベースになるだろう、と、選択肢がない中で開き直ったというか…(笑)。
そのときに一母親、一読者としてたくさんの絵本を楽しみました。ディック・ブルーナのあかちゃん絵本を子どもはほんとに好きでしたし、『あおくんときいろちゃん』も大好きで、こんな抽象絵本も子どもたちが受け止めるんだなあとか。そういう絵本との出会いの中で疑問に思ったのが、「平和絵本」と言われるものに悲しい話や怖い話が多いことでした。
─── そういえば、怖いな、と感じる本が多いかもしれませんね。
特に下の女の子は悲惨なお話だと泣き出しちゃって寝てくれなかったりして…。いろんな観点があると思います。悲惨なことを絵本で伝えて、読んだときはショックを受けても、そこからまた子どもが色々学びとっていくこともあるでしょう。年齢によっては戦争の怖さをちゃんと伝える本も必要だと思うんです。でももう少し小さい年齢の子向けに、平和ってすてきだよ、って、伝えられる絵本がどうしてないんだろう。母親としては、まず、平和っていいね、すてきだね、というのがほしかったのね。でも、ない。なければ、作ろう、と思ったんです。
そして『へいわって どんなこと?』はいつも自分に突きつけていた問いなんです。平和とは“戦争してない状態”だけではないという思いがずっとあって。戦争してないから平和だろうか、と考えると、そう言い切れない。じゃ何だろうと考えたとき、「いのち」だと。「いのち」が大切にされていなければ、平和って言えないんじゃないか。それは「産むこと」「生まれること」やいのちあるがままの子どもの姿を描こうとした私の絵本のベースとまったく同じだな、と思ったんです。
─── 『へいわって どんなこと?』は「日・中・韓 平和絵本」シリーズの第一弾だそうですね。浜田さんがこのプロジェクトに関わられたきっかけは…。
2004年に『世界中のこどもたちが 103』という絵本を、絵描きさんたち103人で作りました。当時始まっていたイラク戦争に対して私たち絵本作家は何もしなくていいのかという思いで、「こどもは平和でなければ生きられません。大人が起こす戦争の最大の犠牲者は兵士でなく、こどもです」というメッセージを込めました。原画展も全国巡回し成功に終わった一方で、2005年頃、私は日本に危機感を持っていました。当時の首相の靖国参拝問題や、歴史を書き換えられた教科書が検定を通るという状況が続いて、このままだと日本の子どもたちは戦争のときにやってきたことを何も知らないで大きくなってしまう。中国や朝鮮半島では、日本との侵略戦争や植民地時代の歴史も学んでいるわけで、知らないのは日本人の子どもたちだけみたいな状況になったら、これから先、近隣の東アジアの国の若者たちといったいどうやって本当の信頼を築いていくんだろう、と。
そんなとき“103”実行委員の一人だった田島征三さんが「東アジアの作家と平和絵本を作ろうよ」と言い出された。うーん、できると素敵だけど、できるのかなあ、というのが私の正直な気持ちだったんです。でも田島さんが、政治家だったらすごく難しいけど、僕たちは子どもに向けて絵本を作るアーティストなんだから。中国だって韓国だって、子どもに向けて本を作ってる人たちなんだから、ぜったい気持ちが通じるはず、って。確かに国としてはぎくしゃくしていても、子どもの幸せを思って表現する作家同士なら分かり合えるかもしれない。当然困難は予想されました。だけど、何とかなるんじゃないか、いや、できるんじゃないかな、と。そしてこんなふうにも話し合いました。たとえ本にならなくてもいい。中国や韓国の作家に呼びかけて、気持ちを通じ合わせていくことだけでも意味があるから。結果として、やっぱり1冊にはならなかったね、ということでも、いいよね、と。
そして田島さんと和歌山静子さん、私と田畑精一さんの4人で呼びかけのお手紙を作りました。「もし、中国、韓国、日本の絵本作家が連帯し、心を一つにして1冊の絵本を作ることが出来たら、意義は大変大きいのではないでしょうか。絵本は子どもの心に直接働きかけられる媒体ですから」と。どう受け止めてもらえるのかな、と不安はありました。でもあとから中国作家も韓国作家も、絵本の力で平和を発信したいと日本人が言ってきてくれたことに感動したと言ってくださった。それは、まずは大きな喜びでした。
2005年に、和歌山静子さんと2人で中国の上海に、和歌山さんの友人でもある絵本作家の周翔(ヂョウ シァン)さんに会いにいきました。韓国の作家さんで最初にお会いしたのは『こいぬのうんち』のチョン・スンガクさんでした。日本に講演にいらしていて東京でお会いしたんですけど、そのときのチョン・スンガクさんは私の印象では厳しかった。企画はすばらしいと思うけど、表面的な平和を言うのであれば意味がないと思う、と。お顔つきも厳しかったですね。
2006年の夏、日本人作家の私たち4人がそろってソウルに出かけました。そのことで韓国作家たちは、日本作家は本気なんだ、と、思ってくださったと思うんです。翌日案内してくださったのが西大門(ソデムン)刑務所です。日本が植民地にしているときに、朝鮮独立を叫ぶ人をつかまえて拷問したり処刑した施設。ここから私たちはスタートしたんです。ここに4人そろって行った、ということがすごく大きくて。チョン・スンガクさんの表情が日本でお会いしたときとはぜんぜん変わっていました。自分が連絡の窓口をやるから、浜田さん、日本側の窓口になってくださいと。日本も韓国もまだ出版社が決まっていなくて、通訳もボランティア。そんな中で私とチョン・スンガクさんが直接メールのやりとりを始めました。その一方で、和歌山静子さんが中国の絵描きさんとの窓口となり、中国に再三行かれたりしていました。
─── 最初は、1冊にされるというお話でした?
最初は漠然と“103”のイメージがあったので、みんなで1冊できるといいね、と話していました。ソウルで話したのは、翌年あたり中国で集まれたらいいね、そのときに各自アイディアを持ち寄りましょう、ということ。それが実現して、中国の南京に三か国の絵本作家12人と出版社が一堂に会したのが2007年11月でした。この南京会議の準備のために、中国の作家たちは大変尽力されました。すでに何人かは今につながるダミーを作ってきていて、韓国のクォン・ユンドクさんや私もダミーを公開しました。そこから苦闘が始まっていくんですけれど(笑)。
『ソリちゃんのチュソク』が日本でも人気のイ・オクベさん(韓国)は、非武装地帯をテーマに描きたいとダミーを持ってらして、でもみんなで1冊というイメージだったから数ページのものを作ってこられたんですね。私も、いろんな方の絵が一緒に入って、それぞれの国の人が「へいわってどんなこと?」と問いかけるような1冊でもいいな、と。でも作家が一人で仕上げたほうがそれぞれの作家の世界を発展させられる、一人一冊にしましょう、となったんです。その代わり「連帯して作る」。つまり作りかけの試作、ダミーを、それぞれみんなで検討しあうというとんでもないことがはじまりました(笑)。
でも南京会議では、とにかくプロジェクトが出発できる、現実になっていきそうだという手ごたえがみんな嬉しくてねえ(笑)。会議が終わったあとはホテルの一室に集まって…楽しかったんですよ。夕食の時のビールやごちそうをダンボール箱に入れて「これで宴会やろう!」って部屋に持ち込んで(笑)ドンチャン騒ぎだったの。中国の蔡皋(ツァイ ガォ)さんが歌い、日本の田畑精一さんが歌い、韓国のイ・オクベさんってとても真面目な方なのに、おどけて踊って…涙が出るほどみんなで笑いこけて。これからがんばろうね、やっていこうね、みんなで作ろうね、って。帰るときは号泣でした。みんな離れがたくて。あの時間を共有したことで信頼関係が作られた。現実に本を形にするための大事な場だったと思います。そしてもっと信頼が高まってくるにつれて、非常に意見がシビアになってくるわけ。要するに「連帯」とは、言葉は美しいですけれど、各作家すべてがダミーを3か国12人にすべて公開して、みんなが忌憚のない意見を言い合うっていう、ありえないことですから(笑)。
─── ダミーを見せる編集者が12人いるというか、もっとすごいことですね(笑)。
そうですね、作家ってみんな王様ですから。自分の世界を自分が作ってる人たちでしょう。日本の作家同士だってぜんぜん感性が違うわけです、大目的は一致してても。しかも中国、韓国の作家同士でしょ。いざ始まってみると非常に感じ方も考え方も違って…もう初めての体験でした。私だけではなくすべての作家が大冒険というか、ジェットコースターに乗ったような(笑)。
─── 制作のほうにも影響が?
それは大きかったですね。『へいわって どんなこと?』の完成形に近いかたちが見えてきたのが2009年の終わり頃ですけれども、韓国の作家から、非常に厳しい批判のお手紙が来たんです。ひとつには、私は子どもの視点で文を考えていたので、ぜんぶ受身の文章だった。だって子どもにとったら、戦争って、ある日突然わけがわからないうちに起きて、ある日突然飛行機が飛んできて、爆弾が自分のところに降ってくるでしょう。だから本全体が「せんそうのひこうきがとんでこない」とか「そらからばくだんがふってこない」とか、被害を受ける子どもの「受身」の立場になっていたんです。その文章を「日本人が無意識的に持っている、戦争の被害者意識のあらわれではないか」「爆弾の場面は、原爆ではないか」と。
当初ガザやアフガニスタンの空爆のイメージで絵を描いていた私はとてもびっくりしたし、その批判にすごく抵抗がありました。でも韓国の作家たちと出会ってから4年近い月日が経っていましたから。それこそダミーをさらけ出し合いながら一緒にやってきた、そういう信頼があってのことだろうなと思って。一度お返事を待っていただいて、自分の心を客観的に見てみようと思ったんですね。そして冷静に考えてみました。
日本人が二度と戦争の悲しさを繰り返すまいと思うとき、確かに、最初に広島・長崎の原爆や東京大空襲の悲惨な光景が浮かんでくる。では、東アジアの人は? と考えました。たとえば重慶爆撃。アメリカは日本が中国の重慶を爆撃したのを参考にして東京大空襲をしたと言われます。それから『コッハルモニ―花のおばあさん』(韓国/クォン・ユンドク作)という慰安婦を扱った絵本がこれから日本でも出版されますけれど、私は慰安婦の存在を知っていたし、もちろんひどいと思っていた。けれど知識として知っていても、もう二度と戦争なんかいや!と思うとき、その苦しみや痛みが、自分の中にあるだろうか。重慶で逃げまどう親子の姿が浮かぶだろうか。そのもどかしさを、韓国作家たちは痛烈に言ってこられたのではないかと。「今のままでは、浜田さんの絵本は日本でしか通用しないでしょう」と…。
だったらどうしたらいいか、と考えました。そのとき、あっ、私は子どもって弱い存在で、爆弾が自分のところに降ってきちゃうとか、飛行機が飛んできちゃうとか常に受身で、何もあらがうことができない存在だと思っていたけどそうじゃないんじゃないか。もしかして子どもはもっと力強いもので、戦争をしでかす大人に、爆弾を落としちゃダメ! そんなことしちゃダメだよ!って言える存在なんじゃないか。子どもは決して戦争なんか起こさない。いつでも戦争を起こすのは大人。大人に対して世界の国の子どもたちがみんないっしょに「やめなさい!」というスタンスにしようと思ったんですね。そして言葉を変えたんです。「せんそうをしない」「ばくだんなんか おとさない」と。
「だって だいすきなひとに いつもそばにいてほしいから」というページがありますが、最初は「だって だいすきなひとに だきしめてもらいたいから」でした。子どもが大人にだきしめてもらう、というだけの意味だったけれど、「だって だいすきなひとに いつもそばにいてほしいから」と変えたことで、大人にとってもこの子がいつもそばにいてほしい、子どもにとっても大人がそばにいてほしいという双方向の文になった。それは本当によかったと思っています。
─── 出版されて初めて、本を通じて知ること、伝わってくる風景があります。『京劇がきえた日』(中国/姚紅<ヤオ ホン>作)は日常のなかに文化が根付いていた様子、壊れていく情景が伝わってきます。
姚紅さんオリジナルの、これだけ素敵な1冊ができたということは、実は大変なことだったんですね。中国は出版の形態が、日韓とまったく違う。いわゆるフリーの絵本作家は存在しないんです。出版社はだいたい国営で、画家は編集者として仕事をしている場合が多い。そして出版が決まった文章に挿絵をつけるという形です。出版には審査も必要です。日韓の出版環境は近かったけれど、中国では、絵描きが自ら発想しダミーを作って出版社に持ち込むことは習慣としてなかった。自作のオリジナルを作ることが、日本で考えるより何倍も大変なことだったんです。その点で、和歌山静子さんの役割は大きかったと思います。和歌山さんは、ダミーの作り方から一生懸命伝えていました。『京劇がきえた日』の女の子は、姚紅さんのお母様がモデルなんですよね。お母様から聞いたお話がベースになっているそうです。でも中国は文化大革命もあったし、この時代のことがわからないので資料集めが大変で。京劇の衣装も、衣装コレクターの方のところへ行って一所懸命取材したんですって。で、あまりの熱心さから、衣装を盗むんじゃないか、と疑われて(笑)と面白いお話もされていました。私たちは、中国の方が京劇の衣装を描けるのは当たり前みたいに思うけど、大学の学生さんの協力でインターネットも駆使して資料集めして…苦労されたそうですよ。でもやっぱり…中国の方でしか描けないすばらしい絵ですよね。女の子の有様、京劇の役者さんの風情も。日本人が絶対描けない絵。姚紅さんは、プロジェクトのおかげで、この絵本をつくることができたとおっしゃっていました。
─── 12冊、これから順次出版されていくわけですが…。
ふつう、出版社が12冊をこんなテーマでどんな作家に描いてもらってとシリーズで企画を組みますよね。でも今回はまったく逆。12人の作家がそれぞれに作りたいものを作った。だから12冊集まって、どうなるのかなあとも思っていたんですけれど…不思議なことに、絶妙な、有機的な関係ができあがってくるという予感があるんです。たとえば『京劇がきえた日』には1937年という年代が出てきますね。『街のおもいで』(中国/蔡皋 作)も年代がはっきりしている。両方ドキュメントなんです。『さくら』(日本/田畑精一 作)もご自分の生い立ちを描いたもので割合年代がはっきりしてる。そうすると作品の時間が重なってくるんです。そして私が描いた『へいわって どんなこと?』や、『ぼくのこえがきこえますか』(日本/田島征三 作)のように死者の目から見る抽象世界のような作品が加わることによって、12冊がひとかたまりになって立ち上がってきて、雄弁に語りだすというか…。おそらく作品が出来上がってくれば出来上がってくるほどひとつのモニュメント的なハーモニーが奏でられていくような…すごく期待する気持ちがあります。12冊そろったとき全体から新しい違うものが見えてくるかもしれない。そこからまた、やれることがあるんじゃないかな、と。
─── 絵本をとおして子どもと大人はどんなふうに触れ合えるか、浜田さんはどのようにお考えですか。
私、絵本って大人と子どもを平等にするような気がするんです。大人が、声と言葉で読んであげて、子どもがそれを耳にして、本に向き合う。でもその絵本の世界を受け止め、絵本の楽しさのなかで遊ぶのは…大人でも子どもでも一人の感情であり、一人で絵本と向き合う感覚だと思うんです。読んでもらうのは大人に読んでもらったとしても、感じとるのは、子どもが直に感じとっている。
これってすごいことで。誰か大人に保護されて、それを受け止めるんじゃない。他のあらゆることが子どもは大人に保護されてのことなんだけど、絵本の世界を受け止めるというのは、もう、ダイレクトに子どもが独自でやっていることじゃないかと。だからこそ大人にとっては、自分が受け止めたことと、子どもが受け止めたことが、交流できると。お母さんたちは、子どもが受け止めたものからまた大きな、自分は気づかない、いろんなものを受け止められますよね。大人が子どもを導いてあげるんじゃなく、一緒に、絵本という「場」に向かい合う。
なぜそう思うかというと、大人になってからの「子どものときの読書の思い出」にふれたときに不思議に感じることがあったんですね。母校のイラストレーションの講師として、毎年、20歳や21歳の若者に授業の中でよく絵本を読むんですけど、そうすると子ども時代の絵本体験の話がいっぱい出てくるの。そのときの記憶がねえ、なぜか「場面」の記憶になってる。お母さんがひざにのせてくれてエプロンが冷たかったとか、読んでたら弟がバタバタしてたとか。私自身もそう。保育園で先生が、どこかから本を出してきてお昼寝の前に読んでくれたとか。本だけの記憶じゃなく、その周りの記憶がそっくりある。
そういう「場面の記憶」を語る若者たちの顔がやわらかくてやさしい顔で。みんな嬉しい記憶なんですね。愛されていた記憶。それと同時に、読んでくれた大人と対等に絵本を遠足した、旅した、受け止めたというか…、そのことにつながるんじゃないかなと。もしかすると絵本って、まだまだ知りえない、ものすごい力があるような気がするんですよね。このごろ、そんな思いがしてなりません。
─── 私も絵本ナビ読者のお母さん方も、戦争を知らない世代です。「せんそう」「へいわ」という言葉や、子どもの受け止め方への戸惑いがあるかもしれません。『へいわって どんなこと?』をどんなふうに子どもたちと一緒に読んだらいいでしょうか。
難しいですよね、平和の発信ってね。たとえばパレスチナやアフガニスタンの子どもが見ると、「おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる」ということがとてつもなく幸せで、日常じゃないと受け取ると思うけど、日本の子には当たり前のことなので。え、なに? ごはん、いつもお母さんが食べろ食べろって言ってるとか。「ともだちといっしょに べんきょうだってできる」… 学校行きたくないのに、行け行けって言われてる。「あさまで ぐっすりねむれる」… どれも日常なんですね。日常って、とても当たり前で、すーっと通りすぎてしまう。
でも日常の場というところからは立ち位置をずらしたくなかった。子どもの視点で描きたかった。最後に「ぼく」が出てきますが、ナレーターは「ぼく」。子どもなんです。だから子どもの言葉で、子どもの立場から言う。制作途中で試行錯誤しても、最後の場面は一貫して変わらなくて、「へいわって ぼくがうまれて よかったっていうこと」「きみがうまれて よかったっていうこと」「そしてね、きみとぼくはともだちになれるっていうこと」がいちばんの平和なことだ、と。
じゃあ、ご飯を食べるとか勉強するとかを、どうしたら読者の方たちに、あぁ、これは本当にすごいことなんだと思ってもらうか。そのために戦争の場面が必要なんじゃないかと。それで戦争の場面を入れることにしたわけです。でもほとんどが日常的な場面で構成されているので、その一場面からお話が広がっていったらいいなあと。
たとえば「おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる」場面、いろんな国のいろんな人たちが一緒に食べてるんだけど、何を食べてるんだろうとか、みんないっぱい食べられるのかなあ、でも世界には食べられない人もいるんだよね、とか。食べられない人がいるとしたらなぜだろう、じゃあ自分たちはふだんの生活でどうしたらいいんだろうとか。決して平和って、小さな絵本でとらえきれるようなものではない。一つの扉を「とん、とん」と叩く、そんなきっかけになればいいなあと思います。
─── たとえば「いやなことは いやだって、ひとりでもいけんがいえる」とはどういうことか、と考えるだけでも、幼稚園や小学校での日常の経験と結びついて、だんだんほかのことも見えてくる。広がっていきますね。絵本ナビでも、みなさん読んだらきっと反応を寄せてくださるので楽しみですね。
そうですねえ。制作中苦労したとか、いろんな意見があったのは、作るまでのことなので。この絵本は存分にそれぞれ楽しんでくだされば嬉しい。肩肘はらずにどうぞ読んでみてください。『へいわって どんなこと?』を通じて、子どもたちとお話が弾んだら、もうそれ以上の喜びはありません。
─── ありがとうございました。
(編集協力:大和田佳世)
この日は震災から二週間。まだ落ち着かない中での取材となりましたが、実際にお会いした浜田桂子さんは凛として「いのち」について「へいわ」について丁寧に熱く語ってくださいました。
真っ直ぐ前を見据える様なその姿に、「今するべきこと」を考えていく上で個人的にも大きく影響を受けたことを覚えています。とても貴重で大切な時間を過ごさせていただきました。
この書籍を作った人
1947年、埼玉県川口市生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。田中一光デザイン室勤務の後、子どもの本の仕事を始める。絵本に『あやちゃんのうまれたひ』『あそぼうあそぼうおとうさん』『あそぼうあそぼうおかあさん』『てとてとてとて』(以上、福音館書店)、『ぼくがあかちゃんだったとき』『さっちゃんとなっちゃん』(共に教育画劇)、『ぼくのかわいくないいもうと』(ポプラ社)、『あめふりあっくん』(佼成出版社)、イラストエッセイに『アンデスまでとんでった』(講談社)、『おかあさんも満一歳』『アックンとあやちゃん』(共にアリス館)など。