あの日からの一年を、子どもの言葉でふりかえろう 2011年3月、ある三姉弟が、福島第一原発から20キロ圏内の南相馬市から脱出した。8か月後、中学1年の長女は、南相馬市の代表として、「ふくしま駅伝」の大舞台に立っていた。
「学校でみんなと連絡帳を書いている時だった。こわくて友達と手をつないでいた。もしかして、ここで私たちも死んでしまうのかなと思った」 ――恐怖、混乱、憤り、不安、そして将来へのかすかな希望
大震災の翌日、福島第一原発から20キロメートル圏内に住んでいた、小学6年の門馬千乃さんは、父を残して、母親、ふたりの弟、祖父母らとともに、住みなれた南相馬市小高区を後にしました。これは、被災した福島県南相馬市の3姉弟による、震災後の生活を書き記した日記です。
文部科学省の調査によると、東日本大震災の影響で転校した小中高生や幼稚園児は2015年5月現在で1万9522人だという。
そのうち、一番多いのは福島県で1万3906人。
今だに東電の福島原発事故の影響が続いていることがこの数字でも読みとれる。
震災が起こった3月11日は季節的には卒業シーズンだった。
小学校を卒業した子どもたちは離ればなれになって、新しい町の中学校に通い出したはずだ。
あれから5年が経って、その子たちも今では高校生になっている。
5年とはそんな時間の長さなのだ。
この本はあの日福島県の南相馬市小高区に住んでいた3人の姉弟の避難生活を彼らの日記形式で綴られたものだ。
3人の住む南相馬市小高区は福島第一原発から20キロメートル圏内。
震災と原発事故があった時、門馬千乃(ゆきの)さんは小学校の卒業をまじかに控えた6年生、弟の健将(けんすけ)くんは4年生、その弟の海成(かいせい)くんは2年生。
震災の日の日記に千乃さんは「もしかして、ここで私たちも死んでしまうのかなと思った」と記している。
おそらくこの日の東北の子どもたちの多くがそう思っただろう。
しかし、この3姉弟たちはその後原発事故の避難を始めることになる。福島市から会津若松市へ。飼っていたペットの犬も連れていくことができなかった。
彼女たちの父親は市の職員だったので一緒に避難すらできない。
そんな中で3人の姉弟は知らない土地で揺れ動く思いを日記に綴っていく。
彼女たちの日記の記述が明るくなるのは、新しい学校になじみだした頃だ。
特に目を見張ったのは末の弟海成くんの日記かもしれない。
最初はほとんどあった事実だけを記していた海成くんだが、9月ぐらいになると文章自体がしっかりとしてくる。
9月12日の日記から。「小高の家からひなんしてから半年がたちました。あいづでの半年間は、短く感じました」
子どもの成長の速さに驚いてしまう。
この3人の姉弟があれから5年どう成長したのかわからないが、きっと素敵な中高生になっているのだろうな。 (夏の雨さん 60代・パパ )
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