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わたしの“なぜ”から扉がひらく 自然と科学を見つめる絵本作家インタビュー

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インタビュー

2022.12.15

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いのちって なに? 舘野鴻さんインタビュー(前編)『ソロ沼のものがたり』

細密画の技法で『しでむし』『ぎふちょう』『つちはんみょう』『がろあむし』(偕成社)などの絵本を描いてきた舘野鴻さん。2022年夏にはリアル・サイエンス・ファンタジー『ソロ沼のものがたり』という読み物を発表しました。表現の形を広げていく舘野さんに、制作に込めた思いを伺いました。

この人にインタビューしました

舘野 鴻

舘野 鴻 (タテノヒロシ)

1968年、神奈川県横浜市に生まれる。幼少時より熊田千佳慕氏に師事。中学・高校では生物部所属。札幌学院大学在学中に演劇、舞踏、音楽に没頭。舞台美術、土木作業員、配送等の仕事をしながら、音楽活動と昆虫を中心とした生物観察を続ける。1996年神奈川県秦野に転居してからは生物調査の傍ら本格的に生物画の仕事を始めるが、リアルイラストの需要が激減した2005年頃より写真家久保秀一の助言を得て絵本制作を始める。絵本に『しでむし』『がろあむし』(偕成社)、『みかづきのよるに』『うんこ虫を追え』(福音館書店)などがある。

生きものたちのドラマを丹念に描く、連作短編集

  • ソロ沼のものがたり

    出版社からの内容紹介

    昔、たくさんのかえるでにぎわった水辺。生き残りの孤独なかえるは、食べることをやめ、ソロ沼の守り神となっていた......。野生生物の生き様を目を凝らし続ける鬼才画家・舘野鴻が満を持して放つ、初の連作短編集。ばった、おさむし、やんま、あげは……生きものたちの濃厚なドラマを、美しい挿絵とともに丹念に描く。

自分が虫だったら

――『ソロ沼のものがたり』は、ソロ沼という架空の場所を舞台にした、野生生物たちの連作短編小説ですね。どのように生まれたのでしょうか。

細密画の絵本を描きはじめたとき、『しでむし』『ぎふちょう』『つちはんみょう』とまずは3冊目まで出してみましょう、という企画でスタートしました。読んだ方はわかると思うのですが、1冊目の『しでむし』は生き物の死体を餌にして子孫を残していく虫を細密画で描いています。

『しでむし』『ぎふちょう』『つちはんみょう』『がろあむし』と続く細密画の絵本シリーズと、『ソロ沼のものがたり』

このとき、死を「汚いもの」や「秘すべきもの」ではなく、どうしたら生と等価に美しく描けるかということを真剣に考えながら描きました。自分は死んだことがないから、死がどういうものなのか、本当にはわからない。そうすると、ねずみの死んだ姿をきちんと描くためには、自分も死ななくては描けないのではないのか、と思い詰めるくらいになって……。

完成した『しでむし』をいろんな方に評価していただきましたが、一般読者に届いたかというと、そこまでたどり着けていないと。自分が絵本でやろうとしていることは何なのか、このまま描き続けていくのかと自問を繰り返していました。それで、昔からあるような寓話やファンタジーの技法で何か書いてみたら、自分が伝えようとしたことを伝える方法がわかるだろうか、と思ったのです。

あらすじを思いついたのは、2作目の『ぎふちょう』に取りかかる頃だったと思います。忘れないように書き残しておいて、気が向いたときに続きを書き綴るようになりました。

ただ、絵に比べて経験がありませんから、どう書いていいかわからない。絵よりも言葉でそのまま書く方が伝わるはずだと思いながらも、本当に手探り状態で。夜寝る前とか、電車の中で気が向いたときに少しずつスマホのメモ機能で書き進めるとか、そんなふうに書くうちに少しずつ「ソロ沼」の世界ができていきました。

――“ばった小僧”が脱皮するまでの話「おけら先生」や、羽化のとき羽が固まって飛べなくなってしまった蝶の話「じゃこうあげは」。「やんまレース」では、ぼろぼろの体で勝負に挑んだトンボたちが沼に落ちたり、クモの巣に突っ込んだり。読んでいるとまるで自分も虫になったような気持ちになります。

「自分が虫だったら」って思いながら書いていますから。僕は葉っぱにも石にも雲にも風にも水にもなります。常に、憑依しようとしています。

そもそも自然界に完全な個体はとても少ない。ちょっと足の先がちぎれていたり、羽が傷ついていたりする方がずっと多いです。それだけ自然界で野生として生きるのは厳しいことなのです。僕は20代半ば頃から生物調査の現場で長く働いていましたが、標本採取のために完璧な個体を探しても、見つけることは難しかったです。

「かえるのヨズ」では、おたまじゃくしの頃、「こおいむし」に左目をさされて片目のつぶれたアカガエルが、餌を捕まえられず、お腹が空くあまり同胞の子どものかえるを食べてしまって罪悪感に苦しむ姿を書きました。

食物連鎖と生命の循環

――『ソロ沼のものがたり』を通して言葉で伝えようとしたのはなんだったのでしょう。

ひとことで言うのは難しいですが、幼い頃からずっと心にあった問い「いのちってなんだろう」ということを書きたかった。自然界では当たり前の死を言葉にすることで、子どもたちがどう受け止めるのか、不安もありました。本書は小学生も大人も読めるファンタジーとしたのですが、刊行後、驚くほど子どもたちから熱い感想が届いているんですよ。小学校の低学年、1年生の子からもメッセージが届いています。

“「やんまレース」で落ちたトンボはどうなったの?”など、心配する手紙も多いです。傷ついて沼に落ちたとんぼは死んでしまったかもしれませんが、よし原に落ちた小さなカトリヤンマは恋人に助けられたかもしれません。“「おさむし戦争」でオサムシはみんな死んじゃったの?”とかの質問もありますが、実はオスは死んだけれど、メスは生きています。越冬して、成虫として翌年卵を産むんですよ。

――それを聞いてほっとしました。厳しくとも生を全うする虫もいると思いたいです。9つの短編につながりはあるのでしょうか。

1つ1つは別々のお話ですが、舞台がソロ沼を中心とした、海から山岳までの地域という点ではつながっています。私の住む丹沢南麓も地域のイメージに含まれます。1冊の中に、実は300年以上の時間が流れているのです。

大きなかえるで賑わっていた沼、生き物の数がどんどん減っていった時代から、また生態系が変わって多様な種が増えていく時代があったり……。沼の周りで火事があってその後ススキが生えたり、沼の形も変わり、草木に覆われた赤黒い沼から、明るく見晴らしのよい透き通った沼になったり……。水や植物の描写から、沼の各時代を想像してもらえたら嬉しいです。

ヒントを出すと、もともと「ソロ沼御前」のモデルは、2004年に外来生物に指定されたウシガエルという設定です。この大きなかえるは食用として海外から連れてこられたけれど、そのうち人間の事情で、知らない国の沼に放り出されてしまった。そこにはたくさんの餌となる生き物がいるけれど、自分たちには天敵がいなくて誰に食べられるわけでもないからどんどん増えていく。やがて沼には自分たちの食べる物がいなくなり、かえるは自分たちの子を食うようになる。そんな自分に嫌気が差して食うことが嫌になり、食べることをやめたかえるがいたとしたら、というお話です。

そして、その場から動かなくなった孤独なかえるがいつしか何百年も生き、そのうち鹿などの獣も吸い込んでしまうという、化け物のような伝説になり、やがては“ソロ沼にいけば願いがかなう”と噂される沼の守り神のようになっていきます。“未来から見た昔ばなし”のような感じです。

生き物の擬人化への迷い

――長い年月の物語だったのですね。9つのお話から、野生生物たちの生き様、悲しみや苦しみが伝わってきます。

でも生き物を擬人化することについては、出版直前まで迷いは消えませんでした。

――なぜ擬人化に迷いがあったのでしょう。

生物調査の現場で、長年、植生や標本などの事実に忠実に絵を描いてきました。研究者との交流も多かったです。難しい言葉で言えば「環世界」(*)というものがあって、生き物はそれぞれの知覚に基づいて世界を認識している。だからガロアムシのような暗い地中の岩の隙間(地下間隙)で生きる虫にとって視覚は必要がないし、その代わりに振動や化学物質で空間や他の物体を感じとっています。さらに地下間隙ではあらゆる面が移動に利用され、小さな動物たちは上下左右を縦横無尽に動き回ります。彼らは人間なら歩けない壁面も天井面も使って移動しながら暮らしている。このように、人が知覚している世界と、虫の知覚している世界は、全然違うはずです。

*環世界(=Umwelt:ウンベルト)とは、ドイツのヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864〜1944)が提唱した生物学の概念。すべての生物はそれぞれの種に特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。世界とは、すべての生物にとっての客観的な環境ではなく、生物各々によってそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。

たとえばシデムシがかいがいしく幼虫たちの世話をしている姿を見て、「母性」のようなものを感じたとする。「虫に感情はあるか、ないか」という議論であれば、やはり自分は「虫に感情はない」という立場です。

でも一方で「虫に母性なんかあるはずないじゃないか」と言う人がいたら、「シデムシもカメムシもハサミムシも、さらには人間も、子どもを保護しようとする。その行為を、反応・反射だと言い切っていいの?」とも思います。今僕たちが生きている世界は、僕たちが見ている世界だけではできていないように思います。

子どもたちが見る絵本を描くとき、科学的であることは、僕は当たり前だと思っています。たとえばギフチョウがさなぎで過ごす森を描くなら、どのような森なのか、季節ごとにどのように植物が展開しているか。夜にツチハンミョウの成虫が地中から顔を出すなら、その季節、その時刻に空に輝いている星の位置はどうか。「自然を伝える」という場合においては、絵をデフォルメするにしても、画家は必ず科学的視点持ち観察をし、そのための稽古をする必要があります。

でも同時に僕は、子どもたちが“なまの自然”に触れて「なんで?」「どうして?」と思うとき、両方の答えを準備してあげたい。「反射だよ」という答えと、「母性を感じるね」という答え。両方とも決して嘘ではないですよね。だって、人間は誰も虫になったことはないのですから、虫が何を考えているかなんてわかりません。

対象に触れた子どもが「不思議だな」「なぜだろう」と思って、知りたくなる。そこから先の答えはきっと子ども自身が見つけていくはずです。「なぜ?」から、観察し、仮説をたてて、実験し、検証していく。「なぜ?」がその子にとっての“科学のはじまり”なのですから。

後編へ続く

インタビュー・文: 大和田 佳世(絵本ナビライター)
編集: 掛川 晶子(絵本ナビ編集部)

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