ある日、うさぎのぼうやは言います。 「ぼく、いえでしようかな」 おかあさんうさぎは言います。 「あら、たいへん。おまえは わたしの だいじな ぼうやだもの。 おいかけていかなくちゃ」
さて、ここからぼうやとおかあさんの攻防戦が始まります。 ぼうやがお魚になると言えば、おかあさんは漁師になって捕りにいくと言い、 小鳥になって頭の上を飛んでいくと言えば、止まりたくなるような木になると言います。 では、ヨットになると言えば? サーカスのテントに逃げ込むと言えば? 人間の男の子になって、家に飛び込むと言えば?
おかあさんの答えは・・・素敵!! こんな答えが待っていたら、やんちゃなぼうやだってとろけちゃう。 いえいえ、わかってて逃げ出したのかもしれないね。 いくらおかあさんが大好きだって、一人でどこかへ行きたくなるもの。 想像の世界で、ぼうやはどこまでだって遠くへ行くことができます。
わが子を見守る母親の愛情を、強く感じるこの物語。 どこかで聞き覚えがある方もいるでしょう。 そう。マーガレット・ワイズ・ブラウンの傑作、1942年32歳の時の作品です。 なかがわちひろさんの訳、長野ヒデ子さんの絵で新しく生まれ変わったのです! 雰囲気はがらりと変わり、親しみやすくなりました。 それでも、伝わってくる温かさはそのままです。
七変化するぼうやとおかあさんの姿の可笑しいこと、可愛らしいこと。 親子で何度でも、そのやりとりを楽しんでくださいね。
(磯崎園子 絵本ナビ編集長)
あのマーガレット・ワイズ・ブラウンの傑作が、日本人画家の絵で生まれ変わりました。海をこえ、山を渡り・・・やんちゃうさぎとおかあさんの、おかしなおかしなおいかけっこ!
私が絵本を手にしたのは、60歳を少しばかり過ぎてからでした。それまで、絵本は“おんなこども”の読みものであると思ってきたのです。絵本は、「真っ当な成年男子(正確には老年男子です)が決して覗いてはならぬ世界である」と、それはもう、ある種の確信に近いものでした。
ところがあるとき、ものを書いたり本を読んだりするのが大好きな母が、突然文字を読めなくなったのです。これは当事者の母にとっても、私にとっても極めて深刻な事態です。
散々うろたえた結果に思い付いたのが絵本の力を借りることでした。さっそく知人から何冊かの絵本を譲ってもらって、一緒に読みました。毎日毎日、絵本でした。そうです、母に読み聞かせるのだから、私が“おんなこども”の本を開くことには、何ら不都合はないのです。
それで、来る日も来る日も絵本を読んでいると、母の症状は少しづつ回復に向かい、私の精神はすっかり絵本の魔力に冒されてしまったのです。
前置きが長くなってしまいましたが、マーガレット・ワイズ・ブラウンさんの傑作を、なかがわちひろさんの訳、長野ヒデ子さんの絵で復活させた新しい絵本です。帯に“母子で読むと、おもしろさ倍増!“とありますが、真っ当な老年男子が読ませて頂いても面白さが半減するものではありませんでした。
表紙では、赤いチェックのエプロンを着たお母さんがうさぎの坊やを追いかけています。坊やが「ぼくつかまらないもん!」とお母さんの手をすり抜けて駆けてゆくところです。坊やも本気では逃げません。お母さんにつかまえてほしいのです。お母さんはおかあさんで、本気で坊やを追いかけたりはしないようです。心の中では、坊やと一緒に、あちらこちらへと素敵なところへ行きたいのでしょう。エプロンの裾の広がり具合に、坊やを追い掛けようとするお母さんの心情と体の動きが表現し尽くされているようです。
川の場面ではうさぎ顔の魚が出てきたり、山登りでは古風なはんごうがあったり、小鳥の顔もうさぎの坊やだったりして楽しめます。
「ぼうやを、ぎゅうっと だきしめて、「おかえり」って いうわ」の台詞と、お母さんと子どもの表情がとても印象的です。絵から、ほんわりとした体温が伝わってきます。
「それなら、いまと かわらないや。 やっぱり おうちに いようかな」の所で終わっていても、一つの物語として成立できるようにも感じられましたが、最後の場面があることでホット安心できるのです。
確かに人間は一人でも生きらないことはありませんが、従属や依存ではなく、自立した存在として一緒に生きる方が楽しいに決まっています。絵本では、それぞれの日々を大切なものとしながら暮らす母親うさぎと坊やが生き生きと描かれています。この絵本を手にする世界中の“おんなこども”さんたちは、絵本のうさぎ親子と同じように幸せなのです。 (でもくらしさん 60代・その他の方 )
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