夢の世界の図書館
|
投稿日:2014/02/09 |
図書館には毎週行きます。
昭和30年代とか40年代は今のように図書館もきれいで明るいところではありませんでした。住んでいた地域にもよりますが、あまり多くもなかったと思います。
今は公共図書館も充実しています。私の家からは歩いていける距離に二か所、電車で一駅のところに一か所ととても便利です。そもそもそういうところをねらったのですが。
閉館の時間も遅いところでは夜の9時までというところもあって、会社帰りに立ち寄ることもできます。
でも、さすがにコンビニのように深夜まで開いている図書館はないのでは。
ところが、あったのです。「よるのとしょかん」が。
この図書館の開館時間は「まよなかからよあけまで」なんですから、すごい。
そこで働いているのは、カリーナというおさげがとってもかわいらしい女の子と三羽のふくろうたち。
どんな人が利用するのかだって?
たくさんの動物たちです。
ここでのルールも私たちがよく知っている図書館と同じ。
大きな音で楽器の演奏なんてできません。
演奏前の曲探しに図書館にやってきたリスたちが案内されたのはプレイルーム。ここならどんな大きな音をたてても大丈夫。いいですね、こういう部屋があって。
悲しいお話に大粒の涙を流しているおおかみは、よみきかせコーナーでじっくりと大きな耳を傾けます。
もちろん、「よるのとしょかん」では貸出もしています。
のろまのかめさんも、このサービスにご満悦。
朝になる前にカリーナたちは屋根裏でいってしまいます。
残念ですが、そういうわけで私たちはカリーナたちに会うことはありません。
もしかすると、「よるのとしょかん」をのぞくことはできるのでしょうか。
それも残念ながら、できないのです。
だって、「よるのとしょかん」が開いている時間は、私たちは夢を見ているから。
作者のカズノ・コハラさんの絵はリノリウム版画で描かれているそうです。
あったかくて、かわいくて、「よるのとしょかん」こそ夢の世界の図書館かもしれません。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|
酒井駒子さんの描くうさぎが好き
|
投稿日:2014/02/02 |
ずっと昔、聞いたことがあります。
「幼い子どもからは一生分のしあわせをもらっている。だから、その先、どんな悲しいことや苦しいことがあっても許さないといけない」って。
そうかもしれない。
子どもが生まれ、まだ歩くことも話すこともできない頃のかわいさ。
パパって叫びながら抱きついてくるあたたかさ。
ほっぺのやわらかさ。はえかけの歯の白さ。
そんなこんなのしあわせをあの何年間でもらったのだなあ。
それは一生分のしあわせなんだなあ。
石井睦美さん文、酒井駒子さん絵による、この絵本を読んで、そんなしあわせを思い出しています。
森の中の小さな家で生まれたしろうさぎは、まだ秋を知りません。
春にうまれたばかりだからです。
だから、玄関の脇にあるりんごの木が赤い実をつけたのを見たことがありません。
ある日、おかあさんの作ったりんごジャムのおいしさにたまらず、りんごの木をかじればきっとおいしいはずだと思ってしまいます。
そして、それをためしてみようと。
そんな朝を楽しむ夜のしろうさぎの様子や、家を出るときのおかあさんとの会話のかわいらしさといったらどうでしょう。
おかあさんに「どこにいくの?」ときかれて、「ほんとのことと うそっこのこと。おかあさんはどっちがききたい?」なんて、子どもと過ごすたくさんの時間をもったおかあさんならではの特権のような会話です。
りんごの木にかじりついて、泣き出すしろうさぎ。びっくりして外にでてきたおかあさんといっしょに見つけた、「まだあおい ちいさなりんごの実」。
そして、おかあさんがあかいクレヨンで描いてくれた、大きくて真赤なりんご。
しろうさぎとの会話。しろうさぎの表情やしぐさ。
そういえば、こういうしあわせな時間を子どもたちはくれたんだ。
いや、こんなしあわせな時間を今も過ごしている若いおとうさんやおかあさんがいるんだ。
そう思うだけで、しあわせになりそうです。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|
ゆきは好きだと、ちいさな声で
|
投稿日:2014/01/26 |
ゆきは嫌いではありません。
北国の、ゆきの深い地方の人たちの苦労を思うと、大好きともいえません。
お年寄りが屋根の雪下ろしをしている光景をニュースでよく見ますが、なんと大変なことかと思います。
季節に一度や二度ではありません。本当に大変です。
それに残念なことにそんな町には若い人も少なくなっています。
おじいさんとおばあさんだけで、あれだけの重労働をしているのですから。
ゆきは、そんな苦労も積もらせるのです。
ゆきはまっ白で幻想的で、静かで、やわらかくて、いいものですが、北国に住む人たちの厳しい生活も忘れてはいけません。
それでも、ゆきがもっている、心をざわざわさせる気分は好きです。
いまにもゆきが降りだしそうな灰色の空。
そして、ひとつ、またひとつ降ってくる、舞い落ちるという表現の方がふさわしいかもしれません。
それをみているだけで、外にでてみたくなります。
ちょうど、この絵本の中の「いぬを つれた おとこのこ」のように。
でも、ラジオもテレビも「ゆきは ふらないでしょう」といっています。
そのあとの、文がふるっています。
「けれども ゆきは、ラジオを ききません」「それに ゆきは、テレビもみません」
だから、どんどん降ってくるのです。
町がまっ白になるくらい。
なんといっても、この絵本の絵が素敵だ。
作者はユリ・シュルヴィッツというポーランドの絵本作家。
絵に質感があって、コミカルは表現もあるが下品ではない。こういう絵は心にやさしくしみてくる。
ゆきがもっている高揚感が見事に伝わってくる。
ページいっぱいにちりばめられたゆきをみていると、やっぱり、ゆきはいいなと思ってしまう。
雪の多い北國の人のことも思いつつ。
ちいさな声で。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|
寒い日に読むあったか絵本
|
投稿日:2014/01/19 |
いまが一番寒さの厳しい季節。
富安風生という俳人が詠んだ句に「大寒と敵(かたき)のごとく対(むか)ひたり」というのがあって、なるほどうまいことをいうと感心しました。
朝、ぐんと冷えた道を歩いて会社や学校に向かう時などは、まさにこんな気分ではないでしょうか。
都会ではめったにありませんが、北の雪国では寒さ以上に雪の道を行くこともあって、その大変さに頭がさがります。
いわむらかずおさんの人気シリーズ「14ひき」のこの巻、『14ひきのさむいふゆ』もねずみたちの住む森をまう雪の場面から始まっています。
かれらの家も半分以上雪でおおわれています。
でも、窓からなんだか暖かそうな明かりがもれています。
14ひきの家族たちの家の中はストーブがあってとてもあたたかいのです。いわむらさんは家の中をとってもあたたかない色で描いています。
雪に閉じ込められて退屈しているかと思いきや、なんだかねずみたちはとっても忙しそうです。
おじいさんはのこぎりを使って何を作っているのでしょう。
おとうさんはハサミで工作をしています。
おばあさんが手でまるめているのは、おいしそうなおまんじゅうです。
ほっかほっかにふくらんだおまんじゅうを食べながら、おとうさんがこしらえたゲームに夢中になる14ひきたち。
寒さもわすれるくらい、あったかい家です。
そうこうしているうちに雪もやんで、ねずみたちは外にでます。おじいさんが作ったそりをひっぱって。ここからいわむらさんは白を基調にした明るい絵を描きます。
そりあそびに夢中になるねずみたち。すると、たちまち「せなか ほかほか、はなのさき つんつん」。
この「はなのさき つんつん」という表現のうまいこと。
実際に寒さが厳しい時に、鼻の先を触ると、そこはとても冷たくて「つんつん」していることがあります。
いわむらさんの「14ひき」シリーズの人気が高いのは、そういうきちんとした言葉の使い方にも理由があるように思うのです。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|
午年に読みたい一冊
|
投稿日:2014/01/12 |
午(うま)年なので、せっかくだから、馬の絵本を読もうと思いました。
その時、すぅっと目に飛び込んできたのが、この『スーホの白い馬』でした。
奥付を見ると「1967年10月」発行とあります。もう50年近く前の絵本です。
それが何度もなんども読み返され、読み継がれているのですから、驚きです。
しかも、この物語はモンゴルの民話を組み立て直した作品で、文も絵も日本人によるものです。
なのに、こうして読み継がれてきたのは何故でしょう。
この物語はモンゴルの楽器馬頭琴(ばとうきん)がどうして誕生したのかを伝える昔からのお話です。
モンゴルの草原を生きる少年スーホと彼の白い馬の悲しい物語が読むものの胸を打つといえます。
実際に馬頭琴がどのような調べを奏でるのかはわかりませんが、モンゴルの草原に吹く風の音、馬たちのひづめの音、
草原を駆ける馬たちの息の音などが相俟って、どのページからも音楽が聞こえるかのようです。
絵本は文と絵だけでできあがっていますが、この作品には音が常に流れています。
それが物語に深みを与えているといっていいでしょう。
スーホはある日草原で迷っていた小さな白い馬を助けます。
月日が経ち、りっぱに成長した白い馬とともにスーホは殿さま主催の競馬の大会に出ることになりました。
そこで勝てば殿さまの娘と結婚できるというのです。
競馬が始まって、一斉に馬たちが駆け出します。先頭は、スーホの白い馬です。
競技に勝つものの殿さまは約束を守らず、スーホに乱暴さえ働きます。
白い馬は殿さまの兵士たちを振り切って、草原のスーホのもとに戻っていきます。けれど、白い馬のからだには無数の矢が突き刺さっていました。
死を目前にした白い馬は自分のからだで楽器を作るようにスーホに願います。
「そうすれば、わたしはいつまでも。あなたのそばにいられます。あなたを、なぐさめてあげられます」。
この絵本のもう一つの魅力は、馬と人間の交流です。
太古の時代から馬は人間にやさしく寄り添ってきたのではないでしょうか。
馬の大きくてやさしい目をみると、なんだか守られている気持ちになります。
そんなことが、この絵本にはきちんと表現されています。
午年なのですから、せめてこの絵本を読んで、馬のことを思ってみるのもわるくありません。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|
もぐら年があってもいいんじゃないか
|
投稿日:2014/01/05 |
「トムとジェリー」はアメリカの1950年代のアニメだが、今でも人気が高い。
いつもネズミのジェリーに騙されているばかりの猫のトム、そんな二匹によるドタバタ劇だが、猫とネズミの関係はどうも古今東西同じらしい。
その訳は、どうもうんと昔、神様がその年の代表を動物たちの中から決めると発表したところかららしい。
ネズミは猫にその集合日を騙して教えて、干支、つまり12匹の動物、から猫がはずされたということで、それ以来猫はネズミを追い回しているのだという。
もし干支に猫がはいっていたら、人気アニメ「トムとジェリー」は誕生しなかったのだ。
干支は日本人にとっては欠かせない。
誕生年を聞く際にも、それだと干支は何何だねと必ずくっつける。同じ干支でも一回り違うんだ(つまり、それだけ年上あるいは若い)というぐらいに、日常的にもよく使う。
十二支の最初はネズミ。でも、どうしてネズミなの、って誰もが思う。もっと大きくて強そうな動物がいるのに、どうしてネズミから始まるの?
どうしていのししが最後なの?
子どもなら一度は考える疑問。
そんな疑問に答える昔話を絵本にしたのが、この絵本。
正月ならではの絵本だ。
今年(2014年)は午(うま)年だが、ネズミから始まる干支の7番めに馬がはいって、そのあとに羊が来るのか、この絵本ではどちらかというとすっとスルーされている。
足の速い馬なら、もっと上位をねらえたはず。せめてへびよりは神様の門に早く到着したのではないか。
誰もがそう思うだろうが、これは昔話だから、そう真剣にいっても埒がない。
ここはひとつ大人の対処で、馬はなんとか7番めと覚えておこう。
一番最初にこの話を考えた人も、たぶんはそうして干支に猫がはいっていないのかという疑問から始まったのだろうから、足の速い馬であっても、7番めにするもっともな理由は考える必要はなかったのだろう。
干支から選のもれた動物は猫以外にもいる。
有名? なところでは狐とタヌキ。蛙なんかもはいっていてもよさそうだ。
どこかの政党が影の大臣を選んだように、影の干支があっても面白いかも。
「何年?」「今年の干支の、もぐら。年男なんだ」、なんて。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|
宝石のような時間
|
投稿日:2013/12/29 |
どうして子どもって小さなものを宝もののようにして集めたがるのだろう。
小さくなった匂いつきの消しゴム。きらきらひかるスーパーボール。遊園地の半券。鉄腕アトムのシール。ちびた青い色鉛筆。小指の爪ほどの貝殻。そのほか。そのほか。
机の引き出しの奥深くにそっとしまって、でもいつの間にかなくなってしまう、宝もの。
もしかしたら、それは思い出だからかもしれない。
誰にも渡したくない、けれどいつか誰かにそっと話したいような。
イタリアで生まれた少年は貧しい生活をおくっている。時には食事さえとれないことがあって、そんな時にはオリーブの種をなめることもあった。
小さくなったオリーブの種。それが少年の最初の「思い出」。
父親がアメリカに出稼ぎに行った時、少年はまだ赤ん坊だった。少年が知っている父親の顔は一枚の写真。
それが少年の二番めの「思い出」。
そして、少年たち一家は父親を追ってアメリカに移住することになる。
ナポリの町で見つけたのは、マッチ箱。
字も書けない少年は、その中に「思い出」のものを入れることにした。少年の、いわば日記。
ナポリでは初めて見た瓶入りの飲み物の王冠をいれた。
アメリカに着くまでの苦難。アメリカでの迫害。
けれど、少年はめげることはなかった。
マッチ箱の日記にはさまざまな思い出が詰め込まれていく。
魚の骨。新聞の切れ端。折れた歯。初めて見た野球のチケット。
やがて、少年は字を覚え、印刷工になっていく。
マッチ箱の日記はもう終わったけれど、別の方法で日々を綴っていく。
それは、本屋になること。「読んだらその時のことを思い出せる」から。
今ではすっかりおじいさんになった少年がひ孫の少女に語りかける人生。
たくさんのマッチ箱は、一つひとつは小さいけれど、少年の「思い出」がうんとつまっている。
生きていくことは、そのことを誰かに伝えていくこと。それは未来の自分でもあり、自分から続く人々だ。
「日記」とは、そのためのものともいえる。
精密な筆と温かな色調のこの絵本もまた、「日記」のようにして誰かに読まれつづけるだろう。
|
参考になりました。 |
|
2人
|
|
|
いのちの漲る夜
|
投稿日:2013/12/15 |
都会の夜はイルミネーションがきれいだ。
澄んだ冬の夜を彩る、今や風物詩といっていい。
恋人たちは愛を語りあい、家族は笑顔にあふれる。仕合せに満ちた季節だ。
でも、森ではちがう。
氷つくような寒さの、一面雪景色におおわれた山の夜はまったくちがう。
小動物たちは冬だといって安心はできない。夜だといって心休まるわけではない。
雪の巣穴にうずくまっている野うさぎの子の夜も。
『あらしのよるに』でさまざまな賞を受賞し、動物絵本で人気の高いあべ弘士さんが絵を担当したこの作品は、さすがあべさんと満足のいく仕上がりだが、それよりもいまむらあしこさんの文がいい。
冬の山の一夜のできごとを、母うさぎをなくして初めての冬を迎える野うさぎの姿を通じて、動物たちが懸命に生きる姿を活写している。
それは都会の夜とはまったく違う。それでいて、生きることの重さを痛切に感じる。
いまむらさんの文章のすごいところは、動物たちの動きを的確に表現している点だ。
たとえば、野うさぎの子の毛づくろいの場面。
「耳を かおのまえに ひっぱり、まえあしで、ていねになでつけます」なんて、まるでそこに野うさぎの小さな鼓動が聞こえそうだ。
だから、夜の雪の森で、野うさぎの子が陸ではきつねから、空からはふくろうに襲われる場面の、胸がどきどきすることといったら、ない。
「あしをとめた そのときが、のうさぎの子の いのちの、おわりなのです」と書かれたら、応援するしかない。
この子を助けてあげて!
くる、くる、きつねが。くる、くる、ふくろうが。
逃げて、野うさぎ! 駆けて、野うさぎ!
子どもたちの声援が聞こえてきそうな絵本。大人だって、夢中になるのだから。
それに加えて、あべさんの絵だ。
なんとか逃げおおせた野うさぎの子の、朝の光にすくっと立つその姿の凛々しいことといったら。
いのちの美しさにちがいない。
都会の冬の夜を彩るイルミネーションはきれいだ。
けれど、命をかけた冬山の夜は、もっと生き生きとしている。ただ、そのことを知らないだけ。
この絵本は、そっと、そんないのちの漲る夜を教えてくれる。
|
参考になりました。 |
|
1人
|
|
|
本を読む一番お気に入りの場所
|
投稿日:2013/12/08 |
どこで本を読むかは、読書好きな人にとって重要な問題です。
ふとんの中、書斎、トイレ、公園のベンチ、コーヒーショップ、さまざまあるでしょうが、私は断然電車の中。仕事に向かう、または仕事から帰る電車の中。
適度に揺れて、適度に賑やか。案外通勤電車というのは静かなものです。だから、ページが進みます。
もっとも絵本には適さない。読むスペースの問題で。
絵本を読む時は、部屋の中。きちんと座って読みます。
ある日、森の中で一冊の本が落ちているのを見つけた、こねすみのニリィ。
お話が大好きなニリィはいそいで家に戻って、さっそく本を読もうとします。
ところが、「ガッタン ゴットン ガガーン」って大きな音が。ニリィの家にはやかましい弟たちがいたのです。
なんとか彼らを家から追い出して、さあゆっくり読めると安心したニリィですが、今度は台所からおかあさんねずみの晩ごはんの支度の音が。
生活騒音っていうのでしょうか。思った以上に大きく響くものです。
仕方なく、森へ行って本を読もうと決めたニリィですが、キツツキの音もアナグマさんのいびきの音も気になって本どころではありません。
草原には風の音が、池には蛙たちの合唱が。
どこで本を読むかは、今やニリィにとっては大問題です。
悩んだ末に、ニリィはいいことを思いつきます。
音を出して自分のじゃまをするみんなを集めて、おはなし会をすればいいんじゃないかって。
ニリィの思いつきは自分だけでなく、まわりも幸せにします。
読書のじゃまをするものを味方につけてしまおうという方法です。
おとなの人が絵本を読む時、なかなかいい場所がありません。だったら、ニリィのようにおはなし会で読むのも最高です。
声を出して、みんなの表情を見ながら、絵本の世界に入り込めるなんて。
ちいさなこねずみに教えられた知恵です。
本を読む一番お気に入りの場所。
そんな場所を持っているのは幸せです。
だって、そこが一番心地いいところなんですから。
|
参考になりました。 |
|
1人
|
|
|
こんな絵本は宝物
|
投稿日:2013/12/01 |
井上ひさしさんはとても才能のある人でした。
「でした」と書いたのは、2010年の春に亡くなったからです。
どんな才能があったかというと、小説を書きました。演劇の台本を書きました。放送の台本を書きました。ストリップ小屋(ここがどういうところかはお父さんに訊いてください)のコントを書きました。お米のことに悩みました。本のことに力を注ぎました。若い人に力をくれました。
そんな人でした。
忘れていました。絵本の文も書いたことがありました。
それがこの作品です。絵は安野光雅さんが担当しています。
『ガリバーの冒険』の、本当の作者(原作といいます)は、ジョナサン・スウィフトというアイルランドの作家です。
小人の国や馬の国を訪問することになるガリバーの話は聞いたことがあると思います。
でも、読んだことはない、と心配することはありません。あまりにも有名すぎて、本当の原作を読んだ人はきっとあまりいません。
だから、こうしていくつになってもガリバーの物語を読むことができるのです。
井上ひさしさんが海を好きだったかどうかは知りません。
でも、井上さんの名前を有名にした『ひょっこりひょうたん島』は海に浮かぶ島で繰り広げられる活劇でしたし、初期の演劇『11ぴきのネコ』も確か海が描かれていたと思います。
井上さん自身はけっして波の上をふらふら浮かんでいるような人ではありませんでした。
むしろ、しっかりしたブイのような人でした。
ここは波が荒いよ、ここは浅瀬だよって、航海する船に教えてくれるブイ。井上さんの発言はそのようでした。
そんな井上さんがどうして絵本の文を書くことになったのかわかりませんが、絵を描いた安野さんは井上さん亡くなった後に自分の本棚の奥から1969年に出版されていたこの本を見つけます。
それがこの本の、あらためて出版されるきっかけとなりました。
最後の、小人の国を離れていくガリバーの顔が、井上さんの顔に似せているのは、安野さんのお遊びでしょう。
そういう遊びを、井上ひさしさんという人は大好きだったと思います。
|
参考になりました。 |
|
0人
|
|
|