図書館は笑顔の似合う場所
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投稿日:2014/06/01 |
「おさるのジョージ」はH.A.レイとマーガレット・レイ夫婦によって生み出された、絵本のキャラクターです。
あまりの人気に次々と作品が発表されました。
この絵本も、その中のひとつです。
「としょかん」が舞台ということで読んでみようと思いました。
なかよしの「きいろいぼうしのおじさん」と図書館に行った「おさるのジョージ」ですが、外国の、たぶんこれはアメリカでしょうが、図書館事情を知ることができます。
そ の点では、図書館好きにはとても興味深い絵本だといえます。
まず、「おさるのジョージ」が向かったのは、図書館のお姉さんが本を読んでいる「こどものへや」です。
最近では日本でも盛んに行われている「読み聞かせ会」です。
椅子に腰かけて図書館のお姉さんが絵本を読んでいます。子どもたちは床にじかに座っています。もちろん。この中に「こさるのジョージ」もいます。
次に、図書館の棚の高さです。
本を探すおとなたちの姿も描かれています。頭が出るくらいですから、そんなに高くはありません。
背もたれのゆったりした椅子に座っているおじさんも描かれています。日本の図書館ではなかなかこういう贅沢な椅子を見つけることはありません。
「こさるのジョージ」が乗っていたずらをする「ブックトラック」は、日本の図書館でも見かけます。
貸出カウンターは円型になっていて、利用がしやすそうです。
貸出しカードもちゃんとあります。
もちろん、「こさるのジョージ」も作ってもらいました。
そんな図書館にいる子どもたちの、なんと溌剌とした笑顔でしょう。
「おさるのジョージ」が巻き起こす珍騒動のせいではなく、図書館そのものが楽しくてしょうがないのだと思います。
「おさるのジョージ」のせいで散らばってしまったたくさんの本を書架に戻す子どもたち。
本を大切に扱わないといけない、という図書館の約束を知っているのでしょう。
図書館から帰る「おさるのジョージ」を見送る子どもたちの手にもたくさんの本があります。
本好きの、図書館好きの子どもたちの本が楽しい、いい本だったらいいですね。
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じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ
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投稿日:2014/05/25 |
長いタイトルです。長すぎるので引用しません。
数えると、33文字もあります。
そのうち、「−」以下は、この絵本の主人公の少年の名前です。名前だけで21文字あります。
これはイギリスの物語ですが、日本にも長い名前の子どもがいます。
「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの・・・」と、まだまだ続きます。でも、これは落語の「寿限無」というお話。
この落語でもそうですが、長い名前を呼ぶのにリズムが必要。早口の技術です。
この絵本で繰り返し出てくる「ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー」という男の名前を読む時も、リズムが必要です。 これは結構難しい早口言葉といえます。
(もし、お父さんやお母さんとこの絵本を読むのだったら、もっと「早口で!」とせがんでみるのも面白いと思います)
ここでは短く「ジョン」くんと書きます。
だって、「ジョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー」くんなんて書いていたら、それだけで終わってしまいそう。
「ジョン」くんはまじめな男の子。いつも「おべんきょうしに」歩いています。
ところが、「ジョン」くんは不幸な男の子でもあって、途中でワニにあったり、ライオンに咬みつかれたりします。だから、いつも遅刻をしてしまうのです。
先生に遅刻の理由を言っても信じてくれません。
たしかに、ワニにあったりライオンに咬みつかれたりはめったにしないもの。
先生は「ジョン」くんに罰として、「もうわにのうそはつきません」と300回書くように言います。
「ジョン」くんが書いたたくさんの「もうわにのうそはつきません」が、表紙裏に載っています。これを見るだけで、「ジョン」くんがかわいそうになってしまいます。
この絵本のおわりには、「ジョン」くんの遅刻の理由を信じようとしなかった先生に起こる不幸が描かれていて、「ジョン」くんとともに読者の気持ちもスッキリするようにできています。
だって、読者は「ジョン」くんの遅刻の理由がワニにあったり、ライオンに咬みつかれたりしたことを知っているのですもの。
ジョン・バーニンガムの素敵な絵本、もちろん谷川俊太郎さんの訳もいい。
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商店街は大きなおうち
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投稿日:2014/05/18 |
商店街というのはとっても楽しい。
なんといっても、いろんなお店が並んでいるのですから。
それって、スーパーといっしょ?
スーパーにはいろんな商品が並んでいますが、お店は並んでいません。
魚屋さん、八百屋さん(野菜とか果物を売っているお店のこと)、酒屋さん、クリーニング屋さん、カレー屋さん、それにそれにパン屋さん。
それぞれが別々の家で、そこにはおじいさんがいたり、おばあさんがいたり、おとうさんもおかあさんもいる。
もちろん、子どもだっている。
お店の名前も別々だし、着ている服もちがう。
それでも、商店街のみんなでいろんなことと助け合っています。
難しい言葉でいえば、共同体。
でも、商店街はお店のことだけで共同体ではないんです。
長谷川義史さんの楽しい絵本「パンやのろくちゃん」はそんな商店街が舞台になっています。
「かおがパンパン」のパンやのろくちゃんが主人公。
絵本では珍しいかもしれませんが、絵本雑誌で連載されている作品です。
この絵本には「じてんしゃにのりたいよのまき」「おとしものをとどけたらのまき」「テレビにでちゃったよのまき」「はいしゃさんにいくのまき」の四本の作品が載っています。
商店街の共同体のお話でしたね。
それがよくわかるのは、「じてんしゃにのりたいよのまき」かな。
自転車に乗れないろくちゃんがお店の定休日でお休みのお父さんと自転車に乗る特訓をしています。
でも、ろくちゃん、乗れないんですよね。
そこに酒屋のおじさんが来て、アドバイス。それでも、乗れません。
次はクリーニング屋のおじさん、さらにはカレー屋のおじさん、まだまだいます、うどんやのおにいさん、花屋のおねえさん、肉屋の大将、まだまだ。
ろくちゃんはパン屋の子どもですが、商店街みんなの子どもでもあるのです。
つまり、商店街は大きなおうちみたいなもの。
困った時には助け合ったり、うれしい時にはみんなで喜んだり。
こういう場所は今はなかなかありません。
みんなひとりひとり別々になってしまって、余計なことには口をはさまなくなってしまいました。
それって、なんだかさびしくないですか。
ろくちゃんや商店街の人たちをみてると、うらやましくて仕方がありません。
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漫画家が描くのは変ですか
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投稿日:2014/04/27 |
この絵本の作者高野文子さんは漫画家です。
2003年には『黄色い本』で手塚治虫文化賞を受賞するなど、多作ではないが、漫画ファンにとって欠かせない漫画家の一人といえます。
そんな高野さんが初めて絵本を描いたのが、この作品です。
高野さんの漫画は子ども受けをする作品ではないのですが、この絵本は「幼児絵本シリーズ」の一作としてつくられています。
どういうきっかけだったのかわかりませんが、高野さんと絵本というのはなかなかユニークな組み合わせだと、私などは思ってしまいます。
しかも、この作品の題材が、敷ぶとんに掛けぶとん、それに枕というのですから、変わっています。
はてさて、どんな絵本なのかしら。
敷ふとんや枕といった日常的に使うもの、といっても最近の子どもたちはベッドで寝るのが多いでしょうから、ふとんと敷くということもわかりにくいかもしれませn。
幼い子どもに読み聞かせる時には、少々アレンジしてあげてもいいでしょう。
敷きふとんたちの役目をいいリズムの文でつづっています。
特に気にいったのは、「まくらさん」のお役目。子どもが枕に「おっかないゆめ」を見ないように頼みます。
「まかせろ まかせろ おれに まかせろ」、枕はもし頭に「おっかないゆめ」がわいてでてきたら、鼻息で吹っ飛ばしてあげると、頼もしいかぎりです。
これは大人の私でも頼みたい。
「おっかないゆめ」を見るのは、子どもばかりではないのですから。
絵の線はいかにも高野さんらしい、ちょっとためらいのある線です。高野さんの漫画が好きな人はこの線がいいのではないかと思います。
それに色使いもいい。
初めて絵本を描いてみて、そういうところに心を配ったのではないかしら。
眠る前にこういう絵本を読んでもらったら、きっといい夢を見るのだろうなぁ。
そして、この絵本を読んだ子どもたちが大きくなって、高野さんの漫画を読むんだと思ったらら、それもなんだか少しばかりうれしい気分になるものです。
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おねえちゃんだって抱きしめてほしい
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投稿日:2014/04/20 |
ふたつちがいの弟がいた。
残念ながら、弟が生まれた時のことは覚えていない。少しだけ、おにいちゃんになったはずなのに。
けれど、自分の娘の場合はちがう。
ふたつ遅れて、妹が生まれてきた時の、上の娘のことはよく覚えている。
それまであまり甘える子ではなかったが、妹が生まれてから甘えだした。忙しいママに構ってもらえなくなって、指吸いが始まった。この癖はそのあと、なかなか治らなかった。
そういうことで彼女なりに心のもっていき場をさがしていたのだと思う。
この絵本は、なっちゃんという女の子のおうちにあかちゃんがやってきたところから始まる。
ママと手をつなぎたいのだけれど、あかちゃんを抱っこしていてママの手はふさがっている。しかたがないから、なっちゃんはママのスカートを「ちょっとだけ」つかんで、歩く。
牛乳を飲みたいのに、ママはやっぱりあかちゃんのことで忙しい。なっちゃんは一人で冷蔵庫から牛乳を取り出して、初めて一人でコップにいれる。テーブルの上には、こぼれた牛乳が。
パジャマも一人で着ないといけないし、髪の毛だって、自分でくくる。
いつも「ちょっとだけ」うまくいく。
つまり、その残りはママほどにうまくいかないということだ。
遊んだあとは、ちいさいなっちゃんはまだ眠くなってしまう。
そして、とうとう、「ママ、”ちょっとだけ”だっこして・・・」とせがみます。
この時のママの答えが、いいのです。
「”ちょっとだけ”じゃなくて、いっぱい だっこしたいんだけど いいですか?」
なっちゃんの、とびきりの笑顔が光ります。
文を書いた瀧村有子さんは実際の生活でも三児のおかあさんだそうです。この視点はおかあさんだからこそ生まれたものともいえます。
絵本はこの作品が初めてだそうですが、やさしくて簡潔な文章は余韻を残します。
また、鈴木永子さんの絵がとてもいいのです。なかでも、ママに「いっぱいだっこしたいんだけど」と言われたあとの、さっちゃんの笑顔の素晴らしいこと。
文と絵の、おみごとな調和は「ちょっとだけ」ではありません。
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本は誰にも読まれなかったら、どんなにさみしいだろう。
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投稿日:2014/04/13 |
本は誰にも読まれなかったら、どんなにさみしいだろう。
だって、本は誰かに読まれるために生まれてきたのだから。
それは人もおなじ。
誰からも愛されなかったら、どんなにさみしいだろう。
だって、人は誰かに愛されるために生まれてきたのだから。
素敵な絵本に出会いました。
「森の女の子がかいてある うぐいすいろの本」のことが描いてある、この絵本のことです。
「森の女の子がかいてある うぐいすいろの本」が図書館にやってきたところから、物語は始まります。この本はたくさんの子どもたちに読まれます。それは本にとっても、子どもたちにとっても、とっても仕合せな時間でした。
でも、しばらくたつと、子どもたちは新しい本に夢中になって、この本のことを忘れていきます。
「森の女の子がかいてある うぐいすいろの本」は、さみしくなります。
それでも、素敵な出会いはあります。
アリスという小さな女の子が「さみしかった本」を見つけてくれました。
アリスは少し古ぼけて傷んだ本を大切にしてくれます。何度も何度も読んでくれました。
しかし、そんな仕合せな時間は長くは続きませんでした。
「森の女の子がかいてある うぐいすいろの本」は図書館の本ですから、アリスの手元から図書館の倉庫に行っていまいます。
また「さみしかった本」に逆戻りです。
この絵本は本の物語です。
同時に、出会ったち別れたりする人間の物語でもあります。
人間が出会うのは人間だけではありません。犬や猫にも出会います。大好きになる人形や車ともめぐりあうことがあります。そして、素敵な本にも。
子どもの頃に出会った本をずっと大切に持っている人は大勢います。愛する人と別れるのがつらいように、愛する本と別れるのもかなしい。
本は人間の大切な友だちなのです。
「さみしかった本」は図書館の倉庫からセールとして売りに出されます。
傷んだ本に買い手はなかなか現れません。しかも、雨まで降ってきて、「さみしかった本」の表紙に描かれている女の子の涙のようになっています。
「さみしかった本」は、もう誰にも出会わないのでしょうか。
最後はとっても仕合せになれる本。
こんな本と出会えるのが、うれしくてたまりません。
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「・・・!」
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投稿日:2014/04/07 |
「泣く子も笑う絵本」として人気の高いかがくいひろしさんの「だるまさんが」シリーズで、2008年の発売からわずか6年で100万部を突破したといいます、
一体この絵本にどんな魅力があるのでしょうか。
そこで、60歳近い私がその解明に乗り出したのです。
二ページで開きで、ゆらりゆらり揺れるだるまさんが描かれています。
「だ・る・ま・さ・ん・が」、ひらがなで6文字。
右に左に揺れるだるまさんが6体。
次のページを開くと。・・・!
その次のページも、ひらがな6文字と揺れるだるまさん6体。
次のページを開くと。・・・!!
この「・・・!」を書きたいところなのですが、書くとつまらなくなるので書きません。
では、この「・・・!」がこの絵本の魅力なのかというと、それもありますが、それだけではないと思います。
それは揺れる6体のだるまさんと次のページの「・・・!」の間に潜んでいるのだと睨みました。
ページをひっくりかえしても何も出てきません。
ページをめくるその行為そのものが、面白い空間であり、時間なのではないでしょうか。
思いがけないものに出会った時の面白さ。
それを楽しめるのは子どもだけの特権かもしれません。
おとなは先に何が起こるか、経験で知っています。
だから、揺れる6体のだるまさんに何が起こるのか、だいたいは想像がつく。
経験は知恵でしょうが、面白さを半減しているともいえます。
赤ちゃんと遊んでいると面白いのは、彼らが何をするかわからないからです。
突然泣き出したり、かと思えば笑い出す。
あっちに行ったり、こっちにハイハイしたり。
かがくいひろしさんの「だるまさんが」の魅力は、予測できない(ここでは赤ちゃんにとってですが)面白さといっていいでしょう。
子どもが素晴らしいのは、予測できないものをもっているからです。
この絵本そのものがかわいい赤ちゃんなのです。
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ランドセルの思い出
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投稿日:2014/03/30 |
誰にもランドセルの思い出があるのではないでしょうか。
私にもあります。
私のランドセルは母親のおとうさん、私のおじいさんが買ってくれました。遠い田舎から自転車で運んでくれたのですが、途中で転んだと聞きました。
でも、ランドセルは傷ひとつなかったと思います。
そんなおじいさんの思い出がつまったランドセルに、いつのまにか給食のパンだとかひどい点のテストとかが押し込まれていきました。
ごめんね、おじいちゃん。
この作品の主人公けんちゃんはおばあちゃんから届いた「カラスよりも まくろくろのランドセル」がうれしくて、おもてに飛び出します。
仲良しのゆうこちゃんに会っても、「ぼくは 一ねんせいだぞ!」と、背中にせおったランドセルを自慢げに見せます。
けんちゃんにとって、一年生はとってもえらいのです。
公園に会う人ひとにも、ランドセルを背負ったけんちゃんは、つよがって歩きます。
ところが、かわいい犬のペロとの遊びに夢中になって、大事なランドセルをなくしてしまいます。
さあ、大変。
「かおいっぱいに くちを あけて なきだし」たけんちゃん。
大事な大事なけんちゃんのランドセル。まだ学校に持っていったこともない、新しいランドセル。
けんちゃんのランドセルは見つかるのでしょうか。
ランドセルは学校の教科書とか文房具をいれるだけではありません。
一年生になった勲章みたいなものだし、それから何年もいつもそばにいる友だちみたいな存在。
いつのまにか傷がつき、汚れてもいきます。
ピカピカの光は消えていくでしょう。
でも、けんちゃんがそうであったように、たくさんの人がピカピカのランドセルを背負った一年生を応援してくれています。
がんばれよ、まけるなよ、って。
大人になると、もちろんランドセルを背負いません。
それでも、新しい生活が始まった時、私たちは見えないピカピカのランドセルを背負っているのではないでしょうか。
ランドセルをせおったけんちゃんに、たくさんの人が拍手をしたように、新しい生活を始めた人にもたくさんの拍手がおくられているような気がします。
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やさしい悪魔
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投稿日:2014/03/16 |
誰も悪魔なんか見たことがないはずなのに、悪魔のことを知っているのはどうしてだろう。
黒ずくめで、触覚のような角(つの)があって、お尻には矢印記号の尻尾がついていて、というのが、誰もが頭に浮かぶ悪魔像ではないかしらん。
悪魔は見たことがないはずだが、悪魔に会ったことがある人はいるだろう。
「あの人は悪魔だ」なんて、よく口にする。
つまり、悪魔を見たことがないが、悪魔には会っているんだ、私たちは。
でも、会った悪魔は、きっと普通の人間の姿をしているんだろうな。
谷川俊太郎さんが文を書いて、和田誠さんが絵を描いた、この絵本に登場する「あくま」は黒い定番衣装ではない。
深いオレンジ色の「あくま」だ。
しかも、緑色のつばさまでついている。
主人公の少年が「あくま」に会ったのは、「むかしばなしのなかのみち」だという設定がいい。
確かに「「むかしばなしのなかのみち」だと、「あくま」に会う確率は高いだろう。
まして、絵本だから、現実の世界でも悪魔に会うことがあるなんていえない。
少年がまず会うのは「まじょ」だ。
そういえば、魔女も見たことがないはずだ。
けれど、悪魔と同じように黒ずくめで、定番の三角の帽子、さらにホウキを持っているというのが、魔女の姿。
見たことはないのに。
でも、悪魔と同様、魔女にも会った人はいる。
最近では「美魔女」なんていう人もいる。
この絵本では定番型の魔女が登場する。
「ともだちになりたい」って。
少年はこれを断って、魔女を退治しようとするのだが、「まじよ」は強い。
そこに現れるのが、「あくま」だ。
「まじょ」を倒した「あくま」は、少年に「ともだちになりたい」という。
少年はそれも断って、「むかしばなしのなかのみち」から抜け出すのだが、あとで思う。
「あくまとともだちにならなくて そんしたんじゃないか」って。
どうかな。
もう少ししたら、悪魔と会えるんだから。
でも、くれぐれもいっておくけれど、本当に会う悪魔は怖いんだよ。
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私、むかしのこどもです
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投稿日:2014/03/09 |
絵本作家五味太郎さんの功績は大きい。
私の娘たちがまだ小さかった頃、もう30年近くになりますが、五味さんの絵本でどんなに楽しませてもらったことか。
独特な絵のタッチ、勢いのある言葉、それはもう子どもそのもの。
生きる強さのある絵本です。
だから、五味さんの絵本は懐かしいし、今でも大好き。
私にとって、五味太郎さんは欠かせない絵本作家です。
この絵本のタイトルがいい。
「むかしのこども」って、いつのこども?
読んでいる子どもたちにとっての、お父さんやお母さんが子どもだった頃。
今の子どものお父さんとかお母さんは、昭和という時代の終わりのあたりの子どもでしょうが、この絵本の「むかしのこども」はおそらく昭和30年代とか40年代あたりではないでしょうか。
ちなみに、五味太郎さんは昭和20年(1945年)生まれです。
「むかしのこども」はよく「ぐずぐずしないで」といわれました、とあります。
それは、「むかしの暮らし」がいそがしかったから。
そういわれれば、そうかもしれません。
洗濯機とか車とか便利なものが普通の家庭にもはいってきた頃ですが、逆に背中を押されるようにいそがしくなったのはどうしてでしょう。
人は便利さを発明しながら、ちっともゆったりとしない、変な生き物です。
「むかしのこども」には「むかしの大人」はとってもしっかりしているように見えました。
でも、この絵本を読んで少しわかったのですが、「むかしの大人」は「こどもは小さいしぼんやりしているから、ま、適当でいいだろう」と、考えていたからかもしれません。
今の大人はとってもいい大人で、子どもにもきちんと話をしてくれます。難しい言葉でいえば、子どもの人格を認めてくれています。
そのせいで、いまの大人はあまりしっかりしているように見えないのかもしれません。
おかしいけれど。
いまの子どもも何年か経てば「むかしのこども」になります。
その時に、そういえばあの時はこんな時代だったと思い出すのは、あなた(読者)自身。
五味さんのこの絵本のように、「そんなむかしでも精いっぱい、元気に楽しく暮らしていました」と書けるでしょうか。
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